記念特集 1-3 ディジタルが社会・産業・生活・地方を変える

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Vol.100 No.11 (2017/11) 目次へ

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森川博之 正員:フェロー 東京大学大学院工学系研究科電気系工学専攻

Hiroyuki MORIKAWA, Fellow (Graduate School of Engineering, The University of Tokyo, Tokyo, 113-8656 Japan).

電子情報通信学会誌 Vol.100 No.11 pp.1163-1168 2017年11月

©電子情報通信学会2017

1.古くて新しいディジタル

 MITメディアラボの所長であったニコラス・ネグロポンテが書籍“Being Digital”(1)を出したのが1995年である.アトム(物質)からビット(情報)へという言葉で,ディジタルがメディア,ライフスタイル,職場環境などのあらゆる社会構造を根本的に変容させることを予測した本である.

 この20年の間に,インターネット,スマートフォン(スマホ),有線/無線ブロードバンドなどがもたらした影響は,ディジタル革命といっても過言ではない.いまやテレビはスマホアプリの一つとなり,放送事業者とメッセンジャーアプリ事業者とがライバルとなる時代となった.金融分野では,銀行とIT企業とがライバルとなるフィンテックブームが起きている.ディジタルが業界の垣根まで取り壊しながら,社会に多大な影響を与えてきた.

 しかしながら,今までの20年間はディジタル革命の助走期とも言えるフェーズである.真の意味でのディジタル革命はこれから生じる.これからが情報通信技術が真価を発揮する飛躍期であり,長い年月を掛けてディジタルが社会の隅々に浸透していく.ビットがアトムと融合する世界であり,ディジタルという言葉が再び脚光を浴びる時代に入りつつある.

2.物的資産のディジタル化

 これからのディジタルは,アトムの物質の世界で進展する.ビットがアトムと融合する世界であり,‘もの’のインターネット(IoT)が目指す世界である.

 ‘もの’のインターネットとは,抽象的に表現すると物的資産(physical asset)のディジタル化だ.センサや無線通信技術の進展により,物的資産のディジタル化をたやすく行うことができるようになってきた.最近はやりのシェアリングエコノミーも,物的資産のディジタル化と考えることができる.車をディジタル化したものがウーバー,空き部屋をディジタル化したものがエアビーアンドビーである.

 50年以上も前に開発された航空機座席予約システムのセーバー(Sabre)も,座席という物的資産をディジタル化したものだ.単に座席という物的資産をディジタル化したものであったにもかかわらず,時価総額が親会社のアメリカン航空を上回ったため,2000年に親会社から切り離された.航空機座席予約データが旅行代理店,レンタカー,ホテルなどのデータと結び付くことで膨大な価値が産み出されている.

 ウーバーやエアビーアンドビーの時価総額も膨大であることを踏まえると,物的資産のディジタル化には大きな可能性がある.いまだディジタル化されていない物的資産を新たにディジタル化することができれば,膨大な価値を創出することも夢ではない.

 そもそもグーグル,アマゾン,フェイスブック等のIT企業の強みは,膨大な量のデータを集めている点にある.グーグルはWeb閲覧履歴データ,アマゾンは購買履歴データ,フェイスブックは個人関連データである.ユーチューブ,ニコニコ動画,エバーノート,ツイッターにしても,それぞれ映像データ,コメント付き映像データ,ノートやメモ,つぶやきなどのデータを収集している.集めたデータ自身がプラットホームを構成しており,多様なサードパーティがプラットホーム上にサービスを展開するエコシステムがちまたを席巻している.

 これまでは,ビットの世界の中でのデータが主役であった.これからはアトムのリアルな世界でのデータが主役となり,多様なリアルなデータを手中に収める企業が覇者となる.この企業は,グーグルやアマゾンに匹敵する企業となる可能性もある.リアルなデータは,現在のWeb企業が対象としているWebデータとは異なる新しいデータであり,現時点で膨大な量のリアルなデータを収集している企業は存在しない.大企業でさえこれから,というフェーズにあり,誰にでもチャンスがある世界である.

 囲み記事のゼンメルワイスの悲劇を持ち出すまでもなく,データはあらゆる分野において価値を産み出す.OECDでも「Going Digital」と題するプロジェクトが委員会横断で立ち上がり,データ自身が新たな知見を生み出し,包摂的な成長(inclusive growth)に資する源となることをうたっている(2)

 我々の仕事や生活のプロセスの中には,いまだディジタル化されていないアナログなままの物的資産が至るところに存在する.あらゆる分野においてデータが価値を生み出すデータ駆動型経済が到来しつつあることを踏まえ,ディジタルが我々の社会,産業,生活,地方などあらゆる面において多大な影響を及ぼすことを再認識しなければならない.

ゼンメルワイスの悲劇

 ウィーン総合病院第一産科の医師ゼンメルワイスは,産褥熱による死亡率が第二産科(2.0%)に対して第一産科(13.1%)の方が高いことに注目し,解剖にあたった医師が手指を消毒しないで診療にあたることによるものであるとの説を唱えた.手指を消毒することにより死亡率は2.4%にまで低下したとされる.手指の消毒さえ行わないということは現在の通念から言えば驚くべきものであるが,病原菌の存在を知らなかった当時の医師会は,ゼンメルワイスの説を科学的ではないとして受け入れることはしなかった.ゼンメルワイスの死後,感染は病原菌によって起こることが発見され,今では消毒法と院内感染予防の父として認識されている.

3.社会が変わる

 社会の至るところにセンサが埋め込まれ,インターネットに接続されることで,安全・安心な生活環境が実現される.

 崖や河川の堤防などにはセンサがくまなく設置されることになる.土砂崩れや堤防決壊が起こる兆候をセンサが捉え,警報を発して避難誘導をする.トンネルや橋も同様である.トンネルや橋の崩落の予兆をあらかじめセンサが検知する.

 このような社会インフラのスマート化は,我が国だけが必要としているものではない.諸外国でも,土砂崩れで毎年多くの方々が亡くなっており,安全・安心な生活空間を実現する上で世界的に必要なものである.

 国土交通省の推計によると,国土交通省所管の社会資本ストック(道路,港湾,空港,公共賃貸住宅,下水道,都市公園,治水,海岸)の更新費は,今後50年間に約190兆円必要となるとのことである.これらのストックは,高度経済成長期に集中的に整備されており,老朽化が急速に進む.

 ディジタルを積極的に用いて維持管理費・更新費の低減を図ることは,財政的にも好ましい.また,上下水道の漏水/盗水検知や環境に優しい都市開発など世界的にも強く求められている地球的課題に資することもできる.産業活動の基盤であり,我々の日々の生活を支える社会資本ストックがディジタルで高度化されていくことになる.

 ちなみに,2045年には世界の全人口の70%が都市で生活すると予測されている.発展の過程で深刻な環境汚染を引き起こしている新興国の街を環境負荷の低い持続可能なスマートシティに進化させていくことも,ディジタルの役割だ.電柱,街路樹,マンホールなどに取り付けたセンサが人や交通の流量,天候,廃棄物,構造物などを把握し,住宅,医療,教育,交通インフラ,生活インフラ,ごみ処理,そして環境への配慮にも用いられることになる.

 データに基づく議論を行うことで,新たな街づくりも可能となる.2015年に国が提供を始めた地域経済分析システム(RESAS)は,地方経済に関わる様々なデータを収集・分析し,分かりやすい形で提供している(3).統計資料や企業データなどを用いて,地方経済に関する情報を「産業」「農林水産業」「観光」「人口」「自治体比較」の5種類で分析する.

 例えば,訪日外国人がどんなルートで移動しているのか,輸出が盛んなエリアや品目は何か,農地流動化が進んでいる地域はどこなのか,域外から稼いでいる産業は何かなどの詳細が日本地図上に描画される.俯瞰的な目線で「人・‘もの’・金」の流れを把握できる

 富山市では,住民基本台帳データを用いて,高齢者の分布,高齢者単独世帯の分布,要介護・要支援認定者の分布などを可視化し,社会資本整備計画や福祉・医療・教育施設等の適正配置に反映させている.

 都市施設,地価,社会インフラ維持コスト,地方税収,通行量(自動車/歩行者),購買履歴,空き店舗,賃貸物件床単価などのデータを用いることができれば,将来の街の在り方を予測することもできる.携帯電話や車から得られる位置データを用いることができれば,人や車の動線まで把握できるようになり,予測精度は更に高まる.

 多種多様なディジタルデータをうまく使いこなすことができれば,新たな社会や街をデザインしていくことができる.10年後や20年後の街の在り方を示すことにより,コミュニティ自身が,コンパクトな街づくり,魅力的な生活づくり,地域特性を生かした産業振興などといった施策を考えるきっかけにもなる.中心市街地の再生に向けたテナントミックス事業にも結び付く.

 人口減少,高齢化,低炭素化に対応する持続可能な街づくりに当たって,ディジタルが果たすべき役割は大きい.

4.産業が変わる

 ディジタルは,事業領域の再定義の動きも促進している.

 フィリップスは,米ワシントンDCの交通局が募集した25か所の駐車場における照明の入替え案件に対して,LED照明とその知的制御と保守とをサービスとして提供している.従来の照明機器を売るという事業ではなく,照明をサービスとして提供する事業である.

 また,キャリア社は,空調機器販売という事業を,断熱建物,照明,省エネなどをも含めた「涼しさ提供サービス」に転換させつつある.

 多くの産業分野がディジタル化していくと,アップルが音楽業界に参入したように,IT企業が入り込む余地が生まれる.既に影響を受け始めているのが,金融業界であろう.金融(Finance)と技術(Technology)とを組み合わせたフィンテック(Fintech)に熱い視線が注がれている.そもそも金融はデータ産業であり,ディジタルとの親和性が極めて高く,決済,融資,預金といった銀行の三大業務にIT企業が攻め寄せている.アップル,アマゾン,グーグル,楽天などといったIT企業が銀行のライバルになりつつある.

 業界の枠をなくし,異業種が入り乱れながらの競争を促すのがディジタルである.鉄道会社が不動産開発や駅ナカビジネスに進出しているのと同じで,頭を柔らかくして将来の事業構造の在り方を考えていかなければいけないフェーズに入りつつある.

 ちなみに,ピーター・ドラッカーは,「蒸気機関が鉄道の登場を促し,鉄道の登場がめぐりめぐって郵便,銀行,新聞などの登場につながった」と喝破した.この言葉を現在の情報通信技術に当てはめると,「情報通信技術がインターネット,携帯電話,クラウド,センサの登場を促し,インターネット,携帯電話,クラウド,センサの登場がめぐりめぐって新たな産業の登場につながった」となろう.

 情報通信技術が社会に与える影響を考える上で,インターネット,携帯電話,クラウド,センサなどは途中段階であるとの認識が重要だ.これで終わりではない.このようなインフラが存在するからこそ,あらゆる産業の変革につながり,これこそが社会に与える極めて大きな影響となる.

 もちろん,新たな産業を予測するのは難しい.ウォール街やビジネススクールを生み出したのは蒸気機関がきっかけとの説がある.蒸気機関によって生み出された巨大な鉄道会社は巨額の資金や多くの中間管理職を必要としたことから,ウォール街やビジネススクールにつながったとの論理である.しかし,蒸気機関が登場した時点で蒸気機関とウォール街やビジネススクールを結び付けることができた人は皆無であろう.

 どのような変革が生じるのか定かではないものの,ディジタルがあらゆる産業を変革していくことは確かである.これは,情報通信技術が汎用技術(General Purpose Technology)であることによる(4).汎用技術とは,特定の生産物に関連する技術ではなく,様々な経済活動において利用され,関連分野が非常に広い技術である.

 汎用技術が世の中に与える影響は極めて大きい.ありとあらゆるものの再定義が必要となることから,ディジタルがあらゆる分野に浸透するまでには,10,20,30年という長い年月が掛かる.

 代表的な汎用技術の一つである電力では,19世紀末に電力の電灯事業への利用が開始されたが,工場動力の電化は遅れ,電化によって産業の生産性が上昇したのは1920年代以降である.電化が旧設備の廃棄というコストを伴ったことや,電化が生産性上昇に結び付くためには工場組織の再設計などの関連する変革が必要であったためである.

 このように長い年月を要した例はほかにも多々ある.1870年に前橋藩が最初の西欧式近代的工場組織を設置してから,大規模工場が日本の製糸業で広く稼動する20世紀初めまで30年以上経過している.自動車工場にフォードシステムを導入する試みは日本で1930年代に始まったものの,かんばん方式の確立は1960年代である.工場設計,賃金体系,部品互換性などの多くの課題を試行錯誤しながら解決していかなければならないためである.

 ディジタルも,長い年月を経ながら着実に浸透していくことになる.例えば,農業分野にディジタルを導入して生産性を向上するといっても,当面はディジタルに理解のある先進的な農家のみである.作業のやり方自体を変えなければならないため,まだまだ多くの農家の方々にとっては負担が大きい.時間を掛けて地道に展開していくことになる.

 また,ディジタルが浸透していく過程では,組織の再定義も必要となる.‘もの’づくりの企業では,デザインから,設計,原材料,部品,半製品,組立,物流,販売に至る一連の一方向の流れに適した組織が構築されている.‘もの’にセンサが組み込まれると,‘もの’に設置したセンサから得られたデータをも加味して製品設計に反映させることになる.すなわち,双方向ループを回して‘もの’を設計しなければいけない.双方向ループを回すのに適した組織の在り方を模索していかなければいけない.

 ちなみに,バブルがはじけて10,20,30年たって本物になるという歴史も,長い年月を要するという見方を後押ししている.1850年の英国でのバブルは鉄道株によるものであったが,鉄道の黄金期は1880~1890年に掛けてである.また,1929年のバブルは自動車株と電力株によるものであるが,自動車や電気が社会の隅々に行き渡ったのは1950年から1960年に掛けてである.

 2000年にインターネットバブルがはじけて,2008年にリーマンショックが起こったことを踏まえると,ディジタルはこれからである.50年後,100年後には,現在とは異なる産業構造を有する社会が生まれていよう.

5.生活が変わる

 人をコンピュータやセンサがさりげなく見守ってくれることになるとともに,身体の機能が拡張されることになる.

 例えば,コンタクトレンズの高分子フィルムにチップとLEDを埋め込んだカメラ内蔵コンタクトレンズも登場しよう.装着者の涙から血糖値を継続してLED表示することができ,血糖値を常に把握できる.

 数千ものLEDをコンタクトレンズ上に埋め込めば,眼鏡型ウェアラブル機器は不要になる.

 また,仮想網膜ディスプレイ機器をコンタクトレンズに埋め込み,網膜に映像を直接映し出す方法も物理的には実現可能である.極めて小さいマイクロレーザをレンズに埋め込み,網膜に直接焦点を結ぶことで,鮮明な画像を送り届けることができる.

 このようなスマートコンタクトレンズが実現すれば,外界との接触の仕方に抜本的な変化が生じ得る.スマホなどの表示画面をコンタクトレンズが代替するためである.

 また,布にはセンサが縫い込まれるようになる.既に,NTTと東レは,ナノファイバ生地に高導電性樹脂を特殊コーティングすることで,耐久性に優れ,心拍数や心電波形などの生体信号を高感度に検出できる機能素材hitoeを開発している.

 生地にセンサが縫い込まれるようになれば,呼吸,睡眠,体温などをはじめとした生体信号を常時モニタリングすることができ,信号の乱れの迅速な検知が可能となる.誰もいないところで転倒しても,衣服が状態を感知して,自動的に救急車を呼ぶことができる.生地にDNAチップが埋め込まれるようになれば,がん抑制遺伝子の一つであるp53遺伝子の検出も可能となり,がんに対する見方も抜本的に変わることになる.

 正に人間の体内をのぞいてどんな病気でも診断できる「スター・トレック」のトリコーダである.

 このようなスマートな‘もの’の登場で,医療が抜本的に変わることになろう.現在は病院で身体に関するバイタルデータを測定しているが,病院の外でも常時バイタルデータがモニタリングできるようになる.疾病の兆候を把握することができるようになるため,病気になってから医師に掛かるのではなく,病気になる前に医師に掛かる予防医療が実現される.

 SF的な世界も実現されるかもしれない.映画「ミクロの決死圏」において科学者クルーを乗せた艇が赤血球のサイズで旅をするシーンである.ナノテクノロジー技術による体内ナノマシンが,このような世界の実現を可能にする.

 シリコンと生体細胞が融合されれば,超人的な身体強化も可能となる.既に圧力や温度を感じる有機材料を使った「ロボットスキン」も開発されており,人間が部分的にロボットになる時代はすぐそこまで来ている.聴覚や視覚を取り戻す人工蝸牛や網膜インプラントの技術が進むことで,動物が備える優れた知覚能力や運動能力を人間が手に入れることができるようになる.遺伝子技術と組み合わせれば超人的な身体強化が可能となり,進化の制約からの解放も夢ではない.

 自動運転が実現すると,未来の移動の在り方も変わる.Next Future Transportationという会社が考えているのは,連結可能な6人乗りのモジュール型車両(ポッド)だ.スマホでポッドを呼び出して乗車すると,方向を同じくするポッドと走行しながら連結され,連結されたポッド間を行き来して指定場所までたどり着くサービスだ.ポッドの充電は,バッテリー交換用ポッドと走行中に連結して行われる.小さな売店や食堂もポッドに実装されている.

 このような交通サービスが実現されれば,バス,タクシー,鉄道などの公共交通機関の在り方も再定義されることになろう.我々の身近な交通サービス自体が,情報通信技術でもって,新たなフェーズに展開していく可能性もある.

 ディジタルの芸術領域への展開も,新たな生活空間を提供することにつながろう.電気や紙や水道などの発展の歴史をたどると,最終段階では,照明,和紙造形,噴水などといった装飾的な使われ方が出現する.ディジタルも,芸術や飾り付けなどのデザイン領域に展開していくこともあり得よう.電気や紙や水道とともに,情報通信技術も汎用技術であるためである.ディジタルとデザイン領域との接点が今後ますます強化されていく.

6.地方が変わる

 地方活性化という観点からは,地域密着型のサービス産業(農林水産業,鉱業,製造業,建設業を除く第三次産業)の生産性を上げることが重要だ.農林水産業などの第一次産業においてもディジタルを活用して生産性向上を図っていくことがもちろん期待されているが,サービス産業は経済に占める割合が特に大きいためである.サービス産業は我が国のGDPや雇用の70%以上を占め,中小企業がその大部分を占める.サービス産業における中小企業のシェアは企業数で99.7%,従業員数で74.7%である.

 地方経済圏に属するこれらの多くの中小企業は労働生産性が低く,非正規雇用も多いという構造的要因を抱えている.非製造業の労働生産性を米国や欧州主要国と比べてみると,日本の生産性は米国の6割以下,ドイツ,フランス,英国と比べても低い水準である(5)

 もちろん,我が国のサービスは正確性,信頼性,丁寧な接客という特徴があり,サービスの質の違いという要素も考慮しなければいけないため一概に生産性が低いとは言えないものの,生産性が極めて低い中小企業が多く存在していることは事実である.

 また,人口減少社会の下で人手不足が顕在化する中,良い人材を確保し定着してもらうためには,相応の賃金が必要である.このためにも,従業員一人当りの生産性を上げるしかない.

 地域経済の活性化のみならず,日本経済の成長・発展に資する地域中小サービス事業者の生産性向上に向けて,ディジタルの導入が一つの鍵となる.ディジタル化は,生産性を高めるツールであるためである.

 例えば,大手バス会社の赤字バス路線を引き継いだイーグルバスは,車両にGPSやカメラや赤外線センサを設置して運行状況を見える化し,利用者数の増加を実現し収益に結び付けている.また,箱根の老舗温泉旅館の一の湯では,従業員の労働時間を分単位で把握して,作業の見直し,効率化による労働時間の短縮に努め,生産性を高めている.

 地域経済圏には改善の余地がたくさんある.ディジタルが身近になることで,今まで人が経験と勘で対応してきたプロセスをディジタル化し,生産性を大幅に引き上げる絶好の機会が到来している.

 地方ならではのチャンスもある.地方は現場も人間関係も距離が近いため,問題やニーズを把握しやすく,様々な連携を進めやすいからだ.例えば,地方では,ITソフトウェア会社,ペンキ屋,水道屋などの社長同士の仲が良い.こうした現場の近さから何かが生まれる余地が高い.ディジタル化の第1ステップは,現場での「気付き」にあるためである.顔と顔が見えている関係やコンパクトさは現場での問題やニーズを把握できる強みであり,ちょっとした気付きや工夫を実行に移していきやすい環境にある.

 また,低コストで迅速にディジタル化を可能とする環境が整いつつあるのも追い風だ.地方の高専の学生が,酪農家や畜産家からニーズを拾い出し,牛の発情を検知する機器を構築したなどの事例が既にある.

 これらの点を踏まえると,地方創生とディジタルとはとても親和性が良い.あらゆる産業がスマート化され生産性が上がるとともに,新しい仕事も生まれ,産業競争力も高まる.一つ一つの市場規模はそれほど大きくないかもしれないが,それこそが地方にとってのメリットになる.大手企業が参入しない中小企業向けの程良いサイズの市場が,地方には膨大に転がっている.このような中小企業がたくさん出てくると,地方も国も元気になる.

 ドイツは大企業よりも中小企業の集まりである.ディジタルはそのような社会構成への変化をも後押しするかもしれない.水道に特化したIT企業,土木分野に特化したIT企業,畜産業に特化したIT企業など,様々な企業が立ち上がる可能性がある.今までは,IT/ICTとそれ以外の業界との接点は強いとは言えなかったが,ディジタルという言葉を介して次第に結び付きを深めていく.地方にはこのような接点がたくさんある.

7.ディジタルの衝撃

 我々の周りには,多様なアナログな世界が広がっている.これらをディジタル化して生産性を高め,価値を創り出していくことが,情報通信分野の技術者に課せられた課題である.今までは経験と勘で対応していたプロセスを,ディジタル化したデータに基づく処理に置き換えて,生産性の向上につなげる.

 我々の社会の「神経系」となる世界を異分野・異業種の方々と一緒に夢想しながら,産業,経済,社会が変わるプロセスに寄与することが求められる.

 マーケティングの大家のピーター・ドラッカー,フィリップ・コトラー,クレイトン・クリステンセンは,以下のように述べている.

― ビジネスの目的についての適切な定義は一つしかない.すなわち,顧客の創造である(ピーター・ドラッカー)

― 賢明なマーケターは,まだ満たされていない隠れたニーズを発見し,これを具体的に定義できる存在である(フィリップ・コトラー)

― 顧客のジョブに焦点を当てることで,新たなニーズ,イノベーションのシーズが見えてくる.ジョブとは,顧客が処理しなければいけない作業や解決しなければいけない課題のことである(クレイトン・クリステンセン)

 情報通信技術分野のこれからの技術者には,このような能力も要求される.顧客に深く入り込む,ディジタル化すべきアナログプロセスを見いだし,価値の創出につなげていく能力である.

 また,技術の発展を阻害させないよう,制度設計にも積極的に関与していくことも重要だ.英国の赤旗法(囲み記事参照)の例を出すまでもなく,研究者や技術者も制度設計に積極的に関与し,技術進化を妨げずに市場を創出していくことが重要となる.

 更に,技術進歩を過小に評価してしまいがちなことにも留意しておかなければいけない.1960年当時スイスの時計産業は世界市場で90%のシェアを占めており,歯車やベアリングもないクオーツで時計ができるはずはないと考えていた.しかし,セイコーが1968年にクオーツを用いた時計を発売し,スイスのシェアは瞬く間に10%以下に落ちた.

 指数関数的に技術が進歩することを念頭に置きながら未来社会を構築していかなければならない.ムーアの法則の終えんが近付いていると言われて久しいが,その後にはナノテクノロジーが控えている.リチャード・ファイマンは原子1個1個を組み合わせてどんな分子でも作り出せる日を夢見ていたが,その日も近づいている.

 ディジタルが引き起こす変革に対処するためには,固定概念にとらわれず,柔軟な思考を続けるしかない.1989年に刊行されたMIT産業生産性調査委員会の「Made in America」(6)は,アメリカ製造業の生産性低下に警笛を鳴らし,復活するための処方箋を記したものである.

― 製造業からサービス産業への転換は避けることはできないものの,アメリカのような巨大な大陸型経済では,将来にわたってサービスの生産者として機能していくことはできない

― ベンチャー企業が乱立しており,短期的利益に重点が置かれ,生産性が高まらない.特に問題なのがサンフランシスコ地区のベンチャーキャピタルである

などといった主張がなされている.世界を代表する学者が,経営者と議論しながらまとめたものにもかかわらず,その後のサービス産業の隆盛に考えが至ることはなかった.MITがファイナンス分野で主導的な役割を果たしていたにもかかわらず,先端金融技術の影響も全く考慮されていなかった.

 ディジタルが対象とする分野は全ての産業分野にまたがり,身近なところにもディジタルが有効となるフィールドは多数存在する.固定概念にとらわれず,かつ顧客に寄り添いながら課題を見いだし,他分野のパートナーとの連携を通じて価値を創出していきながら,社会,産業,生活,地方の変革に少しでも寄与していきたいものである.

赤旗法

 1865年に英国で施行された法律.制限速度を郊外では時速4マイル,市外では時速2マイルとし,自動車の前方60ヤード前方で赤旗を持った者が先導し,自動車の接近を知らせなければならないという法律.死傷を伴う人身事故などへの危惧,自動車の普及によって影響を受ける可能性のある馬車運送業者や鉄道業者の議会への圧力,ばい煙や騒音による街道住民の反対運動などが背景にある.赤旗法は1896年に廃止されたが,赤旗法により英国の自動車産業は,諸外国に後れをとることになったと言われている.なお,日本においても京都府の路面電車において,赤旗法に似た電気鉄道取締規則が1895年に京都府令六十七号として制定されている.

文     献

(1) N. Negroponte, Being Digital, Alfred A. Knopf, Inc., 1995.

(2) OECD, Going Digital: Making the Transformation Work for Growth and Well-Being,
http://www.oecd.org/going-digital/

(3) 内閣官房まち・ひと・しごと創生本部,地域経済分析システムRESAS,
https://resas.go.jp/

(4) T.F. Bresnahan and M. Trajtenberg, “General purpose technologies ‘Engines of growth’,” J. Econometrics, vol.65, no.1, pp.83-108, 1995.

(5) 日本生産性本部,労働生産性の国際比較2016年版,2016.

(6) MIT産業生産性調査委員会,Made in America―アメリカ再生のための米日欧産業比較,依田直也(訳),草思社,1990.

(平成29年6月13日受付)

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(もり)(かわ) (ひろ)(ゆき) (正員:フェロー)

 昭62東大・工・電子卒.平4同大学院博士課程了.現在,同大学院工学系研究科教授.工博.‘もの’のインターネット/M2M/ビッグデータ,センサネットワーク,無線通信システム,情報社会デザインなどの研究に従事.本会論文賞(3回),情報処理学会論文賞,ドコモモバイルサイエンス賞,総務大臣表彰,志田林三郎賞,情報通信功績賞など各受賞.OECDデジタル経済政策委員会(CDEP)副議長,新世代M2Mコンソーシアム会長等.総務省情報通信審議会委員,国土交通省研究開発審議会委員等.本会副会長.


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