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世界遺産(1)は,ユネスコの世界遺産条約(「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」,1972年第17回UNESCO総会で採択,1975年発効)により定義され,文化遺産,自然遺産,複合遺産の3種類があり,有形の不動産が対象とされている.2016年12月現在,1,052件(文化遺産814件,自然遺産203件,複合遺産35件)が登録されている.日本は,1992年に世界遺産条約を締結し,1993年に文化遺産として「法隆寺地域の仏教建造物」及び「姫路城」,自然遺産として「白神山地」及び「屋久島」が登録された.近年も連続して,2013年「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」,2014年「富岡製糸場と絹産業遺産群」,2015年「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業」,2016年「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―」が文化遺産として登録され,日本の世界遺産は20件に上っている.
世界遺産条約の目的は,「顕著な普遍的価値を有する文化遺産及び自然遺産を,人類全体のための世界の遺産として,損壊,滅失等の脅威から保護,保存することが重要であるとの観点から,そのための効果的な国際協力及び援助の体制を確立すること」とされている.主要な規定事項として,「自国内に存在する遺産を保護し,将来に伝えることが締約国の第一義的義務であること」とされ,遺産登録された構造物は,数世紀にわたり,維持管理を行っていくことが求められる.その一方で,武力紛争,自然災害,大規模工事,都市開発,観光開発,商業的密猟などにより,その顕著な普遍的価値を損なうような重大な危機にさらされることもある.こうした世界遺産構造物の維持管理には,それぞれの事情に合わせ,置かれている環境に適したモニタリングによる状況把握が望ましい.本稿では,軍艦島とアンコール・ワットでのモニタリングと計測の事例を紹介し,世界遺産モニタリングにおいて,ICTに期待することについて述べる.
世界文化遺産・軍艦島(図1)(2)は,正式名称は長崎市・端島であり,かつては海底炭鉱の島として繁栄した.島の面積は小さく,南北に480m,東西に160mの大きさしかない.しかし,最盛期の1960年には5,267人の人口が記録されており,人口密度は東京の9倍以上で世界一とされている.炭鉱施設に加えて,鉄筋コンクリート造の高層アパート,商店街,小・中学校,幼稚園,病院,繁華街,映画館,警察,郵便局などが存在した.
2009年に,島の南部に整備された見学通路に限り上陸・見学が可能になって以降,観光地としても人気を博してきた.映画「進撃の巨人」ではロケ地として使われ,話題を呼んだ.2015年に,「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業」を構成する一つとして,世界文化遺産に登録されたが,1974年に無人島となってから数十年にわたり建築構造物群の劣化が進行し,保存・維持管理が極めて困難になっている.
図2に示すように,軍艦島の建築構造物群に,カメラ,マイクロホン,加速度センサを設置し,視覚,聴覚,触覚により想定外事象を検知する技術に関する研究を進めている(3).島内には電力のインフラがないため,各建物に太陽光パネルと蓄電池を設置した.更に,計測データをインターネットで収集するために,島内で最も高所にある3号棟の屋上と,本土の軍艦島資料館に海上無線通信用のアンテナを設置した(図3).その他,日本最古の鉄筋コンクリート造集合住宅である30号棟と隣接する31号棟,小・中学校の70号棟,軍艦島最大の集合住宅65号棟,日給社宅16~19号棟等にカメラ4台,加速度センサ48台,マイクロホン2台を設置している.太陽光発電パネル,蓄電池等を大量に島内に運搬することは困難で,センサシステムは間欠動作により駆動している.現在も台風が通過するたびに建築構造物の損傷が進んでおり,そのプロセスをモニタリングし分析を進めている.
軍艦島の30号棟は,同潤会青山アパート等より10年も前に建設された日本最古の鉄筋コンクリート造集合住宅である.30号棟は7階建てであるが,1916年に下4層が先に建設され,その後,上3層が増築された.更に,37年後の1953年に上層を残したまま下層のみを建設し直して現在に至っており,複雑な構造システムとなっている(2).図4に示すように,さびた鉄筋が露出し,建物表面のコンクリートが剥離している.また,上層階の床が下層階へ崩落し,がれきが堆積しているスパンが複数見られている.建設から約100年が経過し劣化と損傷が進行していることもあり,極めて危険な状態であるが,軍艦島内では最も学術価値の高い建築物と位置付けることができる.
30号棟を対象として,視聴触統合センシングによる想定外事象検知の取組みを進めている(4).視覚はカメラによる画像,聴覚はマイクロホンによる音,触覚は加速度センサによる振動で表現しており,これらを組み合わせて分析を行っている.想定外事象検知の方法として,図5に示すように,画像で広い領域を視覚的に捉えて,事象を検知したら,その周辺の音の分析により事象の発生場所を絞り込み,更にその近傍の振動からどのような事象が発生しているのかを分析することが可能である.また,同時並行して分析しながら事象検知する方法もある.すなわち,画像,音,振動のどれかに異常が検出されれば,その他のセンシング結果を相互に比較分析し,事象発生の場所や内容を特定していくことができる.
視聴触統合センシングを実現するためのシステムの構成要素の一つである自律画像センシングシステムについて紹介する.機器を稼動させるための電源と,データ取得用のネットワークを装備し,かつ,台風の強烈な強風を受けても壊れないような頑健なシステムである必要がある.これらを念頭に開発した自律画像センシングシステムは,ネットワークカメラ,太陽電池モジュール,蓄電池,充放電コントローラ,M2M(Machine to Machine)ルータ,PoE(Power over Ethernet)電源/スイッチ,LTE用防水アンテナ,ベースから構成されている.開発した自律カメラシステムと本システムによる取得した画像の例を図6,7に示す.システムの設置を行った2016年2月4日以来,図7に示すアングルでの画像データを継続的に取得・保存している.画像の解像度は1,280×960で,Webにて1分ごとに表示を更新し,バックグラウンドでは1秒間隔で画像データを取得する実験を行っている.毎日,太陽電池モジュールにより蓄電池に充電されると,システムが自動起動して画像データの取得を始め,夜になり電力がなくなるとシャットダウンする方式で,ほぼ順調に稼動している.
30号棟には9台の加速度センサも設置しているが,一例として,2017年5月30日~6月9日のデータ取得状況を図8に示す.同図中,緑色が加速度データを取得した時間帯であるが,太陽光発電パネルと蓄電池による自律電力供給で,2時間ごとにほぼ安定してデータを取得できていることが分かる.
アンコール・ワット(図9)は,カンボジア北西部に位置する世界文化遺産・アンコール遺跡の一つで,ヒンドゥー教寺院建築である.クメール建築の傑作とされ,カンボジア国旗の中央にも描かれている.境内は外周,東西1,500m,南北1,300m,幅190mのほりで囲まれている.主に砂岩とラテライトで築かれ,寺院は付近の製鉄技術を活用して建設された.三重の回廊に囲まれ,第一回廊は東西200m,南北180m,第二回廊は東西115m,南北100m,第三回廊は一辺60mで第二回廊より13メートル高くなっている.第三回廊へ入るには,急勾配の石段を登らなければならない.四隅と中央に五つの祠堂があり,中央の祠堂は高さ65mである.
図10に示すように,アンコール・ワットの第一,第二,第三回廊の各点(●)にて,表1に示す可搬形の高感度加速度センサで常時微動を計測した.図11,12に,第一回廊,第三回廊での計測の様子を示す.本研究は,本会知的環境とセンサネットワーク研究会(2016年度委員長:日本電信電話株式会社東條弘博士)のサポートを受けながら,国立研究開発法人情報通信研究機構・服部聖彦博士,天間克宏博士と共同で実施した(5).
図13に,第三回廊の中央塔西南部(図10中の①)で計測した加速度波形のフーリエスペクトルを示す.南北方向,東西方向,上下方向の成分であり,図中矢印で示す振動数にピークが見られている.3Hz近傍は第三回廊に外付けされた階段を歩行する観光客や局所的な振動の影響と思われ,第三回廊における構造体としての固有振動数は6~8Hzと推察され,三重構造の回廊による剛性の高い岩山のような構造体が構築されていることがうかがえる.固有振動数が低い方に移動すれば剛性が失われたこととなり,構造劣化・損傷を評価することができる.ただし,本来,こうした固有振動数の正確な評価には,構造物と地盤面とで時刻同期計測を行い,周波数領域での割り算をすることが必要である.また,四隅と中央の五つの祠堂の上部での計測を行うことが望ましい.
アンコール・ワットには幾つかの要因によって振動が生じるが,限られたエリアしか観光客が訪れない軍艦島のような環境とは異なり,年間を通して,朝から夕方まで常に観光客が遺跡全域を歩行することに起因する振動の影響は大きい.観光客は西側の入口から入り,第一回廊の壁面に施されている多くの彫刻を見学後,第二回廊へ上り仏像を鑑賞し,更に,急勾配の石段を登って第三回廊からの眺望を楽しむルートが一般的である.帰りは思い思いに散策して回廊を降りていくが,最終的には西側の入口から外へ出ることになる.
図14(a)~(c)に,第一回廊の入口部(図10中の②),入口を入って左へ進んだ前面部(同図中の③),その後面部(同図中の④)の加速度波形を示す.各図とも南北方向,東西方向,上下方向の成分が示されている.図14(a)~(c)の上下方向加速度を比較すると,入口部→前面部→後面部と加速度の振幅が小さくなっているが,観光客の歩行流動によるものである.観光客が出入りすることで最も歩行量が多い入口部の負担が大きく,事前・早めのメンテナンスが望ましいことが分かる.
軍艦島とアンコール・ワットの事例から,世界遺産構造物の維持管理には,それぞれの事情に合わせ,置かれている環境に適したモニタリングや計測によるデータの蓄積と分析が望ましいことを示した.
前述のとおり,軍艦島では建築構造物の経年劣化が進み,台風や地震のたびに損壊していく状況にある.世界遺産の保存という観点からも,観光資源としての軍艦に似た外観を維持するためにも,センサを高密度にばらまいて常時モニタリングをきめ細かく行い,状況をリアルタイムに把握したいところではあるが,電力のインフラがなく,太陽光発電パネルと蓄電池を持ち込まない限りシステムを稼動できない.そのため,可搬形で安定した電力を供給できる自律エネルギー供給システムとともに,低消費電力で駆動でき,ロバストで安定な通信を可能とするセンサネットワーク技術(6),(7)が求められる.軍艦島の建築構造物群は,震災等で被災した未来都市と見立てることもできる.軍艦島で必要とされるセンサネットワーク技術は,次世代防災システムとしても応用できる.
アンコール・ワットは.年間を通して観光客でにぎわう典型的な観光地であり,経年劣化に加え,観光客の歩行等による影響が大きい.影響度を評価するためには,常時モニタリング,あるいは定期的な計測によるデータ取得と蓄積が求められる.しかしながら,こうした環境では,大形のエネルギー供給システムを持ち込むことも,計測のための配線を行うことも現実的ではない.そのため,バッテリーで駆動でき,無線によりデータを収集できるIoTデバイスが必要となり,低消費電力と高精度を追求したMEMSセンサが必須になると考えられる(8).更に,3.で述べたように,精度の高い分析を行うためには,地盤面,第一回廊,第二回廊,第三回廊,祠堂等での多点計測が切望される.センサを設置するだけで自律的に正確な時刻情報が得られ,最終的に時刻同期を確保したデータ群を取得できるような技術も期待される(9).これらは世界遺産以外の一般的な建築構造物,社会インフラ等の維持管理のためのモニタリングにも有用となる.
計測データを収集・蓄積・分析し,数世紀にわたる世界遺産の維持管理に役立てるには,センサや通信の研究開発に加え,構造物や遺跡エリア全体を実空間からサイバー空間へ写し取る持続可能なデータベースも必要となる.そして,究極的には,リアルタイムセンシングとビッグデータ同化による事象分析・予測を行い,その結果により実空間を制御する世界遺産CPS(Cyber-Physical System)の構築が求められていくだろう.
世界遺産登録された構造物は,数世紀にわたり,維持管理を行っていくことが求められる.軍艦島とアンコール・ワットでの事例を紹介し,世界遺産モニタリングにおいて,ICTに期待することについて述べた.
謝辞 軍艦島での研究は,科研費(26289194)の助成を受けたものである.島内での機器設置と計測には長崎市の協力を得た.なお,写真は長崎市の特別な許可を得て撮影した.アンコール・ワットでの計測は,JASA/UNESCO project officeの石塚充雄氏の御尽力で実現したものであり,ここに感謝の意を表します.
(1) 文化庁(編),第40回世界遺産委員会審議調査研究事業報告書,2016.
(2) 伊藤千行,阿久井喜孝,軍艦島 海上産業都市に住む,岩波書店,東京,1995.
(3) 黒木琴海,小寺志保,倉田成人,濱本卓司,猿渡俊介,“環境発電型センサシステムのためのデータ中心型タスクスケジューリング方式,”情処学論,vol.57, no.11, pp.2475-2488, Nov. 2016.
(4) 倉田成人,濱本卓司,猿渡俊介,富岡昭浩,“軍艦島モニタリングプロジェクト(その4),日本最古の鉄筋コンクリート造集合住宅30号棟の画像モニタリング,”日本建築学会大会学術講演梗概集(九州),no.11001, pp1-2,Aug. 2016.
(5) 倉田成人,“世界遺産構造物のモニタリングと維持管理―軍艦島とアンコールワット―,”信学技報,ASN2017-7, pp.31-33, May 2017.
(6) 猿渡俊介,“IoTの原点,センサーネットワークの本質,”日経エレクトロニクス連載,2016年11月号~2017年4月号.
(7) 岡田隆三,黒木琴海,倉田成人,濱本卓司,猿渡俊介,“Contiki OSを用いた複数シンク対応型RPLの実装,”信学ソ大,no.B-18-52, Sept. 2016.
(8) N. Kurata, S. Saruwatari, and H. Morikawa, “Ubiquitous structural monitoring using wireless sensor networks,” 2006 International Symposium on Intelligent Signal Processing and Communications, pp.99-102, Tottori, Japan, 2006.
(9) 倉田成人,“自律型時刻同期センシングシステムの基礎的研究,”構造工学論文集,vol.62A, pp.185-192, March 2016.
(平成29年6月13日受付 平成29年7月15日最終受付)
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