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100年後の世界はとても予想できないが,過去のいつの時代でもそうであったように日々様々な課題を抱えて進んでいることは確かであろう.現状でも世界は様々な課題を抱えており,日本では人口減少問題が最近特に最重要とされている.この難題に対して様々な対策が考えられているが,必要不可欠の対応策が,“イノベーション”を起こし続けることである,と多くの識者が主張している.将来このイノベーションの名称は変わるかもしれないがその重要性,概念は未来に向かっても大きな変化はないと思われる.イノベーションは,御存じのように技術革新を伴うものが多いために技術革新と解釈することが多い.しかし,必ずしも技術革新を伴うわけではなくてもよく,新しい社会的価値の創造などを意味し,例えば組織の運営の変化なども含まれる.イノベーションを担う三つの輪(要素)は,エンジニアリングとビジネス(マネジメント)とデザインであると言われている.
もちろん,イノベーションの中での科学技術の役割は極めて大きい.科学技術の進歩はその速度の変化が激しく,それに追従しなければならない教育は継続した研究の存在なしには考えられない.そして,科学技術の進歩が加速すればするほど,基礎研究の重要性が増すと思われる.これから未来に向けて教育が重要であればあるだけ,研究の重要性,そして従来の固定した分野区分にとらわれない基礎研究を継続することが大切である.この大切さを,情報通信分野の近未来の方向性を見つめつつ,若干の経験を交えながら述べる.
最初に述べたように100年後の世界を予測することは難しく,本稿は,あくまでも私見であり,独断と偏見に基づいていることをあらかじめお断りしておく.
未来を予想することは難しいが,最近の社会での課題の経緯を見て,変化の傾向を見てみよう.すると,同じようなことを繰り返しながらスパイラル的に進歩していることが分かる.世界の人々からは,現状から未来に掛けて日本は安定しつつも老いつつある国であると,捉えられているようである.その根拠の主要な部分は人口減少である.国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば,100年後には,現在の1.2億人から0.4億人,すなわち三分の一に減少する.このことは日本にとっては黒船以上の難題であるとも言われている.地方都市が消滅するとの予想から人口問題が社会問題化して(1),様々な対応策が考えられている.一方で,この人口問題の課題は,イノベーションを起こし続けることが対応への道として最重要であることが指摘されている(2).筆者の小学校時代に社会科の授業の先生から,ブラジルなどへの移民が奨励されていたことなども話題にしながら,日本は国土面積の割に人口が多いので貧乏であると教わったが,隔世の感がある.明治20年頃の人口が0.4億人であり,増減を繰り返している.
グローバリゼーションの動きも戦前は国民国家が強く意識され,近年は国民国家よりグローバリゼーションが強く意識され,最近はグローバリゼーションによる格差の広がりなどの弊害が指摘され,再び国民国家の意識が強調されつつある(3).
教育問題についても小中高校では,詰め込み教育から,ゆとり教育に向かい,最近は,ゆとり教育を見直す方向にある.単に詰め込み教育に戻すのではなく,学ぶ内容は減らさず,何を学ぶか,どのように学ぶか,何ができるようになるか(Outcomes Base)を目指して,アクティブラーニングを取り入れることにしている(文部科学省学習指導要領の改訂,2020年実施).大学教育については,明治維新頃は外国からの知識を学ぶという教育に重点が置かれその後研究の重要性が叫ばれ,大学の使命は建前的には教育研究ということになっているが,特に人事において研究に重点が置かれている.最近は教育に重点が置かれつつあるようである.
以上幾つかの例を挙げただけであるが,今後急激な社会変動があるにせよ,時間軸上の速度は加速しつつもスパイラル的変化で進むものと予想される.
基礎研究とは,基本原理を解明しようとしている研究,または,利益を生み出すことを意図しておらず,好奇心に基づき行う研究,との考え方が一般的である.一方,利益を生み出す研究を目指していても,研究の途中で困難にぶつかり,基礎研究から始めなければならない場合が多々ある.このようなときの研究のプロセスを図1で示す.この図で,横軸は分野,縦軸は発展度を表している.横軸の分野軸は分かりやすくするために,単純に一次元としているが,二次元,三次元状等に表現する必要があろう.横軸に平行な点線の下側は,学問分野として成立しない多くの領域が混在している状態を表している.この中には理系の分野,文系の分野などが混在している.この点線の上側にあるA,B,Cは分野として成長してきた領域例を表している.自分(白抜きの丸)はB分野で,ある課題を解決しようとしているとしよう.解決に向けて,まずB分野の最先端の部分を調べ(①),あるいはB分野で基本原理となってきたことを疑問に思って調べる(②)であろう.更に,隣の分野の状況を調べて,解決策を探る(③,④,⑤,⑥,⑦,⑧)であろう.解決策がない場合は,基本原理を疑い⑨のように深く掘り下げていき,理系,文系などの知識を総動員して解決策を考えるであろう.この際に,場合によっては,新しい分野の種を見つけて,新分野の発展に向かう(⑩)であろう.ここで重要なことは点線の下の理系や文系などが混在した環境が大切で,新分野醸成の場となる.(個人的には,本会の基礎・境界ソサイエティにその役割を果たしてもらいたいと願っている.)
これらのどのプロセス部分でも,利益を無視して好奇心のみで進む場合,目的を無視して,基本原理を追う場合がある.これらはいずれも基礎研究であると思う.その結果,幸運にも初期の目的を達成する場合もあり,そうでない場合も,境界部分に新しい分野の発生を促したり,既存の研究での未解決部分解明に貢献したりすることは大いにある.本会の基礎・境界分野で,文献(4)では,科学と技術の歴史に触れ,回路網理論からグラフ理論(組合せ数学),IC設計,情報通信網へと広がった技術の新しい波の例を示している.
100年後に大学,企業,イノベーションの名称が残るのかどうかは分からないが,類似の役割は消えるとは思われない.類似の役割を担うものを大学,企業,イノベーションと称して話を進める.大学も企業も組織であるので,それらが活動している場合の構図を考えると,図2のようになる.この構図は,もう少し細かな機能分類をする構図も考えられるが,あえてここでは簡単のために,三つの機能に分けた.(大学は企業のような構造ではないとの主張もあろうが,単純化してそうした.)すなわち,基本的構造,経験,提供物である.
基本的構造には,利益モデル,ネットワーク,運営組織などの役割が入り,経験には,協働,ブランド,顧客などの役割が入る.提供物として,大学は,教育研究,人材などで,企業は,‘もの’,‘こと’などである.大学と企業の違いは,提供物の部分が異なるだけで,同じ構造である.このような組織の構造の中で,イノベーションは基本的構造,経験,提供物のいずれの部分でも起こる.更にこれらの境界でも起こる.もちろん複数の機能に関わる部分にもイノベーションが起こることが知られている.例えば,ある企業では,基本的構造の部分で大きな改革をして,イノベーションを起こす企業もあろう.また,ある企業は,顧客へのアプローチに工夫を凝らして,イノベーションを起こす場合もある.また,複数の部分で,イノベーションを起こす企業もあろう.
企業や大学が他の企業や大学と最も差別化(特徴化)される部分は,組織の中でどの部分であろうか.表1は,企業(大学)の業務について,企業(大学)の存続を左右する重要業務(ミッションクリティカル)とそれ以外を横軸に,他の企業(大学)と差別化する業務(コア)とそれ以外を縦軸に,業務分類をしたものである.企業(大学)の存続を左右する重要業務でかつ他の企業(大学)と差別化する業務は濃い網掛けの部分で,製品開発・新たなサービス(大学では特徴ある人材育成)を意味して,最重要部分である.それ以外の薄い網掛けの部分も,もちろん重要であるが,企業の存続を左右する,または,他の企業(大学)と差別化する,のどちらか一方または両方を欠いた部分である.これらの薄い網掛けの部分は,企業や大学で共通する部分でもあり,ある企業(大学)が導入した新システムは,他の企業(大学)でも容易に導入できることを意味しており,長期間の差別化が難しい.これらのことから,組織の生き残りは,製品開発,新サービス(特徴ある人材育成)などの部分を中心としつつ,コア以外,ミッションクリティカル以外の部分も含めた継続的なイノベーションが鍵となる.
本会は,電子情報通信分野を扱うのでその中の情報通信の現状と近未来の方向性を考えてみる.ここでの内容は,昨年10月(2016.10)の日本学術会議電気電子工学委員会通信・電子システム分科会の公開シンポジウム「ICTの将来と人材育成について」において,筆者がパネリストの一人として登壇した際に発表したものをまとめたものである(5).なお,同分科会では,人材育成についての報告書を公開予定とのことである.
情報通信は一言では通信とコンピュータが一緒になったような概念で,図3のように歴史的には同心円の中心から外側に向かって,まず人と人との通信から発展して,コンピュータを含む通信になり,ICT(Information Communication Technology)と言われるようになった.そして,インターネットに発展し,現在は人と人との通信だけでなく‘もの’と‘もの’も含めて,IoT(Internet of Things)として社会全体に実装されつつある.
このような経緯の中で,一番外側のIoT,ビッグデータ,AI,セキュリティなどの言葉が最前線と位置付けられている昨今である.IoT,ビッグデータ,AI,セキュリティについては,本会の100年史の中(6)~(9)でも触れられているので参照願いたい.
少し歴史的にまとめてみると表2となる.この表の上段では,蒸気機関の利用を第一次産業革命,電気エネルギーを用いた大量生産の導入を第二次産業革命,コンピュータ・エレクトロニクスを使ったオートメーションの導入を第三次産業革命として,情報技術と現実世界の融合による新しい生産システムを第四次産業革命としている.ドイツは第四次産業革命を「インダストリー4.0」と称した政策としている.中小企業の国際競争力の強化を目的としての政策で,ドイツ以外の国でも,産業の分野で同様の政策が進行されつつある.製造業では,機械化の生産性向上を求めて様々な技術革新を行ってきた.現在は,この方向がおおむね行き着くところまで到達した状況となり,生産技術を一層細分化して,変わりやすい市場の要求にすばやく柔軟にしかも低コストで様々な品種を作り分けるイノベーションが求められるようになった.例えば,部品が少量でも必要であれば融通したりして助け合う,リアルタイムで部品や資材の使用量や在庫量を把握し,残量が少なくなった場合には発注を自動的にするなどであり,その結果,個々の顧客の要求に柔軟に対応し,生産の現場から消費の現場まで皆が分かるように透明化され,最適な意思決定ができることになる.この状態は,企業の枠を超え,有機的に自動連係する一つの生態系のようなもので,ちょうど,産業のロボット化で,ドイツ全土(あるいはもっと広く)に広げようとしている.この産業のロボット化は,いわゆる,“考える工場(スマート工場)”の実現と言える.
表2の下段は,このような世界の動きに対する日本の取組みを,社会変革の流れにおける位置付けとして示したものである.日本では,昨年1月(2016.1)に第5期科学技術基本計画が閣議決定され,これは,10年先を見通したこれから5年間(平成28~32年)の計画となっている.この中で,“ICT(情報通信技術)を最大限に活用し,サイバー空間とフィジカル空間とを融合させた取組みにより,人々に豊かさをもたらす「超スマート社会」を未来の社会の姿として共有し,その実現に向けた一連の取組みを更に進化させつつ「Society 5.0」として強力に推進し,世界に先駆けて超スマート社会を実現していく.”とうたっている.ソサイエティ(Society)5.0の5という数字は,人類の歴史において,狩猟社会,農耕社会,工業社会,情報社会に続く,5番目の社会改革を目指すという意味が込められているようである.「インダストリー4.0」においては産業革命の4番目を目指した“産業のロボット化”であった.日本の「ソサイエティ5.0」では,5番目の社会改革を目指した“社会のロボット化”で,社会全体にわたる最先端の方向となっている.表2では,超スマート社会の部分で,主役はデータ(IoT,AI,セキュリティ)と記載されている.この部分は,図3の一番外側の部分である.当然のことながら,一番内側の部分からの積み重ねで,外側ができている.すなわち,外側の部分は,データが主役の部分であるが,それを支える部分は自然科学を基礎とした,いわゆる物理法則に従う製品の部分である.
以上をまとめると,情報通信分野での大雑把な二つの方向性として,現状では取りあえずは以下の二つがある.
(1) IoT,ビッグデータ,AI,セキュリティ:サイバー空間と実空間.
競争環境:最先端技術,革新的技術,革新的事業での競争.
基礎学問:数学,応用数学とソフトウェア.
(2) 物理法則に従う製品の世界:資源,環境,安心安全などの制約の中での設計.
競争環境:技術の複雑,極限付近での競争.
基礎学問:物理などの自然科学と応用.
このことから,最前線のIoT,ビッグデータ,AI,セキュリティと,伝統的な電子工学,通信工学,情報工学の最先端の二つの分野が情報通信分野にはあり,もちろん境界分野,関連する様々な基礎・応用分野がその中に横たわっている.
この二つの方向性は,同時並行で進展し,イノベーションは,それぞれの方向性で,更に複合した領域で,進展していくことになる.したがって,情報通信分野は,(1),(2)の両方に精通した人材(両方に精通した人材の養成は難しい)というより,それぞれの分野でとがった人材の育成と,それらの人々のチームにより,大きなイノベーションが起こっていくものと思う.
AI(人工知能)の未来に関して多方面から非常に多くの議論がされている(例えば文献(10),(11)).現在も活躍中で有名な未来学者のレイモンド・カーツワイルは,2045年には,人工知能(汎用人工知能)は人類を超えると予測している.昨年,人工知能が囲碁のプロ棋士を破ったとのニュースによって,多くの人々は,人工知能が,自ら考える能力を持ち始めたと感じた.人工知能は自ら学習を継続し,少しずつ賢くなってきている.人類は文字の発明などで,過去の知識を学習して人間の有限な寿命を克服して科学技術を進歩させてきた.過去に学ぶと言っても,人間は一生のうちで学ぶ期間は有限であるが,人工知能はスイッチを切らない限り学習し続けるわけである.知識もインターネットで世界中のデータを参考にでき,正にIoT,ビッグデータが基盤となって,人工知能は科学技術を発展させることにも貢献し始め,それによるフィンテックなど社会システムの進化を生み,進歩が進歩を生みながら加速していく.この行き着く点は技術的特異点(または単に,シンギュラリティ)と称され,時期は2045年と予想されている.これは,あくまで単なる予測である.人類を超えるかどうかは専門家でも議論の分かれるところであるが,加速度的に科学技術が進むことは確実と考えられる.
工学教育の世界標準への変革を目指して,1999年に日本技術者教育認定機構(JABEE)が設立された.日本語で「技術者」と言う場合には,英語のエンジニア(Engineers),テクノロジスト(Technologists),テクニシャン(Technicians)が含まれるが,これら三つにはそれぞれ役割があり,その専門職資格認定は,それぞれワシントンアコード(WA),シドニーアコード(SA),ダブリンアコード(DA)と別れている.エンジニアは,テクノロジスト,テクニシャンを指導する立場にあり,原則的には大学の工学部卒業者を対象とした資格である.JABEEは基本的に大学教育の認証を目指しているので,ワシントンアコード(WA)に加盟しなくてはならない.JABEEが2005年のワシントン協定加盟を目指して,外国の審査員から,JABEE審査状況の審査を受けることになり,日本から被審査校として名古屋大学,慶應義塾大学,新潟大学の3大学が選ばれた.2003年11月に,カナダ,アメリカ,ニュージーランドの審査員が新潟大学の審査状況を見に来て,後でうかがったことであるが,3大学共に,エンジニアリングデザイン教育が十分でないとの指摘を受けた.その当時,筆者自身は新潟大学で工学部長として教学の責任者をしており,エンジニアリングデザイン教育は卒業研究で十分行われているはずとの認識であったが,外国の審査員からは,卒業研究で学生は教員の研究のお手伝いをしていると受け取られたようである.当時新潟大学にとっても,他の大学にとっても正に黒船の到来であった.関係者の様々な努力が実って,ワシントン協定加盟が認められた.デザインの定義を後で述べるが,日本ではデザインの意味がはっきり分かっていなかったということが原因のようであった.その後,日本の多くの大学は,卒業研究のほかに,エンジニアリングデザイン対応の科目を新設して,数名の学生のグループによるPBL型授業(PBL: Problem/Project Based Learning)を行うことになったようである.2012年に,再度外国からJABEEの状況の審査が行われて,外国の審査員から,「同じ分野の学生グループによるエンジニアリングデザイン教育はよいが,専門分野が異なる複数の学生から成るチームによるデザイン教育が弱い」との指摘を受けた.このことは,同一の学科の学生が複数集まったものではなく,専門,性別などが異なる,多様性のあるチームでの活動が必要との指摘であった.
日本には,教育の質の保証を確保するために,JABEEのほかに,大学改革支援・学位授与機構,大学基準協会など幾つかの認証機関があり,大学の質の向上のために一定期間ごとに大学の審査(法律的な義務付けもあり)をしている.書類審査のほかに大学を訪問して実際に授業を視察したり,教員,学生と面談したりする実地審査をしている.しかし,なかなか効果が上がらないことも事実で,その反省もあり,単に審査だけでなく,日頃の助言,指導などを取り入れる方向にあるようである.
これまでの内容で,エンジニアリング,デザインの言葉の意味が曖昧で,分かりにくかったかもしれず,また,エンジニアリングとテクノロジーの違いも曖昧かと思うので,少し言葉の意味の紹介をする.
多くの人々が,知っているエンジニアリング,テクノロジー,デザインの意味(辞典による)は以下のようである.
・ 工学(Engineering):基礎科学を工業生産に応用するための学問.
・ 技術(Technology):物事を取り扱ったり処理したりする際の方法や手段.
・ デザイン(Design):建築・工業製品,服飾,商業美術などの分野で,実用面などを考慮して造形作品を意匠すること.
世界的には,エンジニアリング教育認定も3協定(WA,SA,DA)あり,それらと専門職資格認定などのアンブレラとしてIEA(International Engineering Alliance.国際エンジニアリング連合)が発足し,高等教育機関における教育の質保証・国際的同等性の確保と,専門職資格の質の確保・国際流動化,共通課題などについて議論を行っている.現在,様々な議論の中で,エンジニアリング,テクノロジー,デザインの意味は,以下のようである(12)~(14).
・ 工学(Engineering):数学,自然科学の知識を用いて,健康と安全を守り,文化的,社会的及び環境的な考慮を行い,人類のために(for the benefit of humanity),設計,開発,イノベーションまたは解決を行う活動.
・ 技術(Technology):エンジニアリング活動における実践的応用を可能にするツール,テクニック(一連の処理方法またはやり方),用具,コンポーネント,システムまたはプロセスを伴う,(それらのメカニズム,性能,機能などを含む設計,製造に用いられ,役に立つことが実証済みの)知識体系(an established body of knowledge).
・ デザイン(Engineering Design):人文社会科学,数理科学,自然科学,工学基礎,工学専門,テクノロジー等の学習成果を統合し,経済的,環境的,社会的,倫理的,健康と安全,製造可能性,持続可能性などの現実的な条件の範囲内で,ニーズに合ったシステム,構成要素,手順と方法を設計,開発,イノベーションを行う,創造的で,度々反復的で,オープンエンドなプロセス.
最近,IEAでは,「世界標準としての卒業生としての知識・能力の規範」などの設定を行っているが,その中に,“リサーチ(研究)”と“デザイン”の重要性が含まれている(13).近年,時々研究は教育には不要との考えも聞かれるが,この考えは大学の弱体化を招き,世界標準からも外れることになることは世界情勢から明らかである.ただし,教員の評価が,研究を重視するため,行き過ぎて,研究にしか興味を示さない教員がいるとすると,これも間違っていることは明らかである.世界標準の工学教育の中に研究と,これに加えて,更にデザインという言葉が入っていることが興味深く,重要である.日本の大学では,もしかすると役に立つことが実証済みの知識,すなわち技術(Technology)教育に重点が置かれ過ぎており,リサーチ(研究)的思考とデザイン的思考の重要性を忘れていることがあるとすると大変である.次章で述べるデザイン能力を向上させる手法は,ちょうど図1で示した研究のプロセスと酷似していることにも注目すべきである.
米国でスタンフォード大学,オーリン工科大学のデザイン教育の調査を行ったが,結果は文献(15),(16)を参照願いたい.日本においても,東京大学i. school(イノベーション・スクール),京都大学d. school(デザイン・スクール),慶應義塾大学マネジメントデザインセンターなどで同様な試みが始まっている.デザインとの名称は使わなくとも,類似の試みをしている大学も多くある.一方で,従来の伝統的な教育との間で,大学によってはデザイン教育がなかなか受け入れ難い場合もあるようである.しかし,少しずつ進んでいることも事実で,新しい試みが,実りあるものになることを期待したいと思う.
前章の最後でデザイン教育の例として,スタンフォード大学,オーリン工科大学,京都大学などを挙げたが,注意が必要なのは,どの大学も工学教育のためにのみデザイン教育を導入したのではないということである.例えば,オーリン工科大学,ウェルズリー大学,バブソン大学では提携により各大学の領域である「工学」,「芸術・人文社会学」,「ビジネスや起業家精神」を相互に学修できる.この3領域の融合はオーリン三角形(Olin Triangle)と呼ばれ,それぞれの大学で相互に必要な要素と位置付けられている.また,京都大学では,工学(建設,機械,情報),経営学,心理学,芸術が協働してデザインスクールを運営しており,工学の分野のみが経営学,心理学,芸術の協力を得ているのではなく,全てが相互に協働してデザイン教育をしている.すなわち,経営学でも工学,心理学,芸術が必要で,芸術でも工学,経営学,心理学が必要で,多様な分野がチームを組んで協働することにより,未解決の課題に挑戦しているわけである.この挑戦し続けるというプロセスが正にデザインなのである.京都大学では,経営学の担当のデザインスクールに関わる教員からお話をうかがったが,デザインの概念をもっと深めて学問にしようと考えているとのことであった.
前章で述べたように,テクノロジーは,エンジニアリング活動のツールと見なすことができる.スタンフォード大学,オーリン工科大学,そして日本の京都大学などのデザイン教育で行われている共通的な仕方は,エンジニアリング(テクノロジーを含む)とビジネス(マネジメント)そして社会・人間性(人文社会,芸術,ヒューマンバリューなど)の能力を,一人の人間に(全部できる人の養成は難しい)頼るのではなく,それぞれの分野のとがった人間から成るチーム(多様性のあるチーム:専門性,年齢,人種,性別などが異なる人たち)による協働作業の中から,現実の問題で,まだ答えが分からない課題を題材にして,付けさせようとしている点である.その際,答えの分からない課題に対しては,どうしても図1のような研究のプロセスをたどることになる.このやり方は,現状では,米国,ヨーロッパ,日本などで,共通している.現実の問題で,まだ答えが分からない課題を題材にした教育には,研究力の優れた教員でないとその指導は難しいことは,容易に予想され,米国の大学のデザイン教育の調査でも,このことを痛感した.このことは,継続的な研究活動が人材育成には必要不可欠ということである.
ところで,長年スタンフォード大学の工学部長をやられたJim Plummer教授(電気電子系の専門)は,10年ほど前のスタンフォード大学の情報系の入学希望者数の激減に対し,デザイン教育を取り入れるなどのカリキュラムの改革で,現在V字回復を実現した.また,オーリン工科大学は2002年設立という,創立間もない大学にもかかわらず,MITなどの著名大学の仲間入りをし,高水準の工学教育を保っているとのことであった.具体的には,米国工学アカデミー(NAE)のバーナード・ゴードン賞(米国の工学のノーベル賞と言われている)が学長のRichard K. Miller氏ら3名に授与されるという大きな成果を上げている.
このように,デザイン教育がなぜ注目されるのであろうか.以下に,筆者の個人的な考え方を述べさせて頂く.
これから二つのS曲線(S字形の曲線)を御紹介する.図4のS曲線は,横軸は経過時間,縦軸は技術の進歩(蓄積量)を示している.ある事業を始めて,時間が経過すると,始めは技術の進歩(蓄積量)は上昇していくが,徐々に停滞(飽和)していく.その理由は,技術のブレークスルーができないのか,利用者のニーズがないほどに進歩したか,その他が考えられる.図5は,図4のS曲線のような経過時間に対する技術の進歩(蓄積量)の変化に対して,生産性の向上の度合いを表している.中央部分が生産性の向上の度合いが大きいことを示しており,これは技術の進歩が激しいときに生産性の向上が現れることを表している.
図6は,二つ目のS曲線である.横軸は専門分野,縦軸は学問の完成度の度合いを表している.この曲線は,東京大学の森川博之教授(17)の図を参考にした学問分野の発展度を表しているS曲線である.左下がフロンティアで,右上に行くほど成熟していることを表している.右上の分野の研究者ほどスマート化とかデザインの必要性を強く認識している.すなわち,左下のフロンティア分野ではデザインのセンスは余り意識されていないが,デザインのセンスが必要と思われる分野ほど右上と言うことである.このようなことから,横軸は分野,縦軸はデザイン教育の必要度を表しているとも考えられる.スマートシティ,スマートグリッドなど,最先端の社会デザインの領域は特にデザインのセンスが必要であり,デザイン的な思考を働かせて,その分野の再生や活性化を起こしているということである.
以上のことから,図4のS曲線上では,図7のように,デザインの考え方によって,技術の進歩が停滞(飽和)した状態から,増加する状態に移動することができるのではないかと考えられる.(時間軸上を無視すれば,技術の進歩が停滞(飽和)した状態から,左側の技術が進歩している状態に移動すると見ることもできる.)また,図6の分野と完成度の度合いとのS曲線上の関係については,デザインの考え方によって,図8のように,完成度の度合いの高い分野が,完成度の低い状態に移るか,または新しい分野が興ってくる可能性もあると考えられる.このことは,イノベーションを引き起こしている状態とも言える.このように,デザイン的思考は研究活動とも密接な関わりがある.
最近の科学技術の進歩は多様で,進歩も速く,5.において,技術的特異点(シンギュラリティ)について,少し述べた.最近のディープラーニングなど,人工知能(汎用人工知能)の発展は,カンブリア紀の始まりと類似していると主張する人々がいる.カンブリア紀に突如生物は爆発的に進化したということが知られているが,その理由は,目の誕生によって,視覚からの情報量が飛躍的に増加して,これにより捕食と捕食回避のための外骨格の進化が爆発的に起こり,多様な生物がこの時期に発生したと言う説である.IoT,ビッグデータ,人工知能の発展により,未来が少し見える(従来よりも精度良く予測できる)ようになるとして,生物の目の誕生と結び付けているのであろう.この真偽のほどは,専門家に譲るとして,確かに50年ほど前に身近にコンピュータが登場して,それに伴って多くの新分野(新学会)が生まれたという事実を筆者自身は経験した.
明治維新から昭和30年代頃まで大学の工学部には,機械工場など,実践的教育の場があった.電気電子情報系学科では,電子情報通信関係産業がれい明期で,秋葉原で購入した部品で,企業などでの製品と同じようなものが大学の研究室で作製可能であった.その後,半導体などの発達により,高価で大掛かりな装置が必要となり,大学の予算では導入が不可能となったことなどが原因で,大学からは工場的なものがなくなってきた.最近のIT産業の中では,高校生,大学生のアイデアで,製品が開発される場合もあり,テストベット,プラットホーム的なものが,大学の工場と言えるのではないだろうか.ちょうど,50年ほど前に,大学生が研究室でものを作っていたような雰囲気が,現在の状況のように思う.その意味では工学部に情報通信工場があり,そこで実践的教育がなされる必要があると思う.むしろ,ビッグデータ等のデータ中心科学またはデータ中心工学の分野では,若者が多く在籍する大学に優位性があり,企業からの研究者も含めて,大学の教育研究の場で活躍できる現場が出現できると思う.
最近,多くの大学関係者から,大学の予算が削減され,短期間に産業に結び付くような研究に予算が配分され,基礎研究には予算が回らず,研究環境が劣悪になっていると聞く.また,高校生の減少から,入学してくる学生に補習なども行わなければならず,研究どころではなく,研究に割く時間が減少して困ったとの声も聞く.もちろん政府や社会にこの実情を訴えて改善に向ける努力は必要であろう.一方で,すぐにはこの状況は改善されない可能性もあり,できるだけ少ない予算で行える興味ある研究テーマは実はたくさんあること,また前章で述べたようにデザイン教育での過程で,新しい研究分野の発生の可能性もあることにも留意して,基礎研究を続ける努力をすべきであろう.そして研究で僅かでも新しいことを見いだしたときのうれしさ,高揚感は何とも例えようもないほど大きいことも事実である.筆者の僅かな経験から,興味深くかつ高いハードルに向かう研究の現場で学生とともに過ごすことが,激しい時代の変化に柔軟に対応できる人材の育成には絶対必要との考えが確信となっている.本来であれば筆者自身の研究での経験(18)を述べるべきであったが,国立大学の工学部での勤務の最後の方で,工学教育に深く関わった経験を基に,基礎研究の重要性を述べさせて頂いた.ノーベル賞受賞者など多くの方々からは,研究面からの基礎研究の重要性が述べられていることも考慮して,あえて教育面からの基礎研究の重要性を強調したいとの意図もあったことも付記させて頂く.
大学などの現場で,学生の指導の忙しい日々の中で,自身の研究,論文執筆(現状では,大学教員の評価は論文の質と量が問われる)に悩んでいる大学の若い教員から時々アドバイスを求められることがある.自分自身は大学で教育研究を長年続けてきたというだけで,とても偉そうなことは言えないが,そのとき以下のようなお話をすることにしている.
(1) 自分の得意分野に,時代の流れを巻き込め.(現在では,例えば,IoT,人工知能,ビッグデータ,セキュリティ,フィンテック,クラウド,ソーシャルメディア,3Dプリンタ,GPS等々.)そして,基本に帰ることも忘れずに(図1⑨).
(2) デザイン的な思考は,自分の専門分野が飽和,停滞しているとき有効.活性領域に復活させる働きがある.新しい分野が開けるかもしれない.(デザイン的思考と図1⑨,⑩も参照.)
(3) 技術の蓄積が激しく進行しているときは,論文の量産が可能なので,手を抜くな(図5).
(4) 大きな夢と志を持ちつつ,継続的活動が必要.
(5) その他
これらは,大学だけでなく研究所や企業で研究や開発に携わる若い研究者にも参考になって頂ければ有り難い.
以上,研究を続けることの大切さを自身の僅かな経験から述べたが,この内容がこれからの100年に向けて本会を背負う若い研究者に少しでもお役に立てば望外の喜びである.日頃,大学や産業界などいろいろな話題で議論に加わって頂いた方々に心から感謝する次第である.
(1) 増田寛也,地方消滅―東京一極集中が招く人口急減―,中央公論新社,2014.
(2) 吉川 洋,人口と日本経済―長寿,イノベーション,経済成長―,中央公論新社,2016.
(3) エマニエル・トッド,グローバリズム以後,朝日新聞出版,2016.
(4) 渡部 和,“技術と科学と境界と―基礎・境界ソサイエティの若い研究技術者に期待する―”信学FR誌,vol.1, no.2, pp.4-12, Oct. 2007.
(5) “ICTの将来と人材育成について,”日本学術会議電気電子工学委員会通信・電子システム分科会公開シンポジウム,Oct. 2016.
(6) 森川博之,“‘もの’のインターネット,”電子情報通信学会100年史,トピックス,電子情報通信学会,2017.
(7) 上田修功,“ビッグデータ,”電子情報通信学会100年史,トピックス,電子情報通信学会,2017.
(8) 神嶌敏弘,“人工知能,”電子情報通信学会100年史,トピックス,電子情報通信学会,2017.
(9) 馬場口 登,“情報セキュリティ,”電子情報通信学会100年史,情報・システム,電子情報通信学会,2017.
(10) 服部 桂,『テクニウム』を越えて―ケヴィン・ケリーの語るカウンターカルチャーから人工知能の未来まで―,インプレスR & D, 2015.
(11) レイ・カーツワイル,シンギュラリティは近い,[エッセンス版]―人類が生命を超越するとき―,NHK出版(編),NHK出版,2016.
(12) 篠田庄司,“工学教育の未来に向けての変化,”信学FR誌,vol.2, no.3, pp.4-18, Jan. 2009.
(13) IEA: Graduate Attributes and Professional Competencies, International Engineering Alliance, 2013, http://www.ieagreements.org
(14) S. Shinoda, “New waves of engineering education and IEA’s graduate attributes,” 2013 ITC-CSCC, July 2013.
(15) 仙石正和,“工学教育と工学研究について,”工学教育,vol.61, no.6, pp.43-48, 2013.
(16) 仙石正和,“工学教育の変遷と工学研究の広がり,”信学FR誌,vol.9, no.1, pp.5-13, July 2015.
(17) 森川博之,“ストーリーとしてのICT未来構築――社会基盤としてのICT――,”特定非営利活動法人新潟情報通信研究所,新潟大学工学部情報工学科共催講演会,Aug. 2013.
(18) 仙石正和,“面白い研究を求めて40年――独断と偏見――,”信学通誌,no.35, pp.180-186, Dec. 2015.
(平成28年12月31日受付 平成29年2月6日最終受付)
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