特集 2-2 「検索」から「出会い」へ

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Vol.100 No.6 (2017/6) 目次へ

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タイトル

渡辺好章 正員:フェロー 同志社大学生命医科学部医情報学科

Yoshiaki WATANABE, Fellow (Faculty of Life and Medical Sciences, Doshisha University, Kyotanabe-shi, 610-0321 Japan).

電子情報通信学会誌 Vol.100 No.6 pp.440-445 2017年6月

©電子情報通信学会2017

1.は じ め に

 新しい科学や技術の出現は,社会の変革を加速し,その展開が更なる自然現象の解明や新たな技術の誕生の連鎖を誘発します.その源は,1687年のニュートンによる万有引力の法則の発見となるのでしょう.この法則は,今から考えると単純で明快な自然界の物理原理ではありますが,これに端を発して自然科学研究発展の連鎖は加速されました.その結果は,産業革命という形で科学に根差した技術を確立して変容を続けました.そして,20世紀においては,エレクトロニクス技術の飛躍的な展開を通じて,計算機科学や生命科学等の様々な新たな地平を創出してきました.また,このおかげで,私たちの生活の質も格段に向上しました.さて,このような進化の連鎖を持続的かつ発展的に生じさせてきた駆動源は,何なのでしょう.

 当然ながら,この進化を導いたのは人そのものでしょう.したがって,この進化には人の知的好奇心が大きく作用し,その結果として生み出される創造性が根源の一つであることは間違いないでしょう.しかし,好奇心だけでは持続性はある程度説明はできても,創造性を生み出し,更にここまでの飛躍的な発展を継続的に成し遂げた科学技術の歴史の説明は難しいように思えます.ニュートンから現代,更には未来に至る科学技術の発展が収れんせずに常に進化し続けるためには,一体何が必要なのでしょうか(図1).

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 さて,筆者自身は特定の宗教の信者でもなく,どちらかと言えば無宗教者です.しかし,研究生活を長く過ごしていると,自然現象の解明過程には,何らかの「見えざる手」が働いているのではないかと思える機会に遭遇したことが幾度かあります.ここでは,人類が発展させてきたこの科学文明に対して,人々の「意識」の中にある非科学的にも思える「見えざる手」がどのように関わり合ったのかを振り返りながら考えてみたいと思います.通常の論文誌記事とは少し趣が異なりますが,本会の基礎・境界部門の100周年という区切りの機に,このような振り返りを行うことがこれからの100年にとっても重要ではないかと思います.

2.「モダン・タイムス」化した現代

 「科学技術の発展は人類にとって幸福なのか不幸なのか」と時々考えることがあります.より快適な生活を目指し,良かれと思って人間が創出した工学技術によって,様々な「事故」が起こり多数の尊い人命が失われています.例えば,交通技術の発展によって,人の移動は格段に便利になりましたが,便利になるために作られたはずである交通機器による人身事故が絶えません.また最近の事例では,直接的な人的被害は出ませんでしたが,3.11の大震災の津波後の原子炉のメルトダウン事故も重要な考察対象でしょう.この事例は「想定外」を織り込めていなかったという点で技術の利用にまだ私たちが未熟であったということでしょうか.また,医療界でも命に直結する手術ミスも多数起こっています.安全第一で設計されているはずの機器類においてこれらはなぜ起こるのでしょうか.

 技術者は,設計図どおりのものを作れば,誰が作っても同じものができることが正しいと思っています.そのこと自体は正しいのですが,機械は設計図どおり作られていても,残念なことに現実の運用においてはこれらが100%確実には動作していません.これが,「見えざる手」を感じる瞬間なのでしょう.事故の原因をたどっていくと,そのほとんどが機械を信用し過ぎて起こったと言っても過言ではありません.百数十キロのスピードでもカーブを曲がれるだろう,少々の地震でも電源は確保されるだろう,機器の誘導に従えば大丈夫だろう,と人間が機械に単純に頼る時代となってきたことを21世紀になってから特に強く感じます.例えば,医療現場の象徴である手術室は多数の電子機器であふれており,医者はこれらの機器類から得られる情報を頼りに施術を行っています.手術の方向性や手順は現在でもまだ医師自身の判断が中心ですが,これらの機器のサポートなしでは的確な施術は難しくなってきているという現実があります.命を預かるという医者のような職業であるならば,自身の判断の重要性は理解していると思いますが,一般の人々においては,疑うことなしに単に機械の言うとおりにしているという場面が増えてきているようです.

 チャップリンの映画「モダン・タイムス」は人が機械を使うのではなく,機械に人が使われることを揶揄した作品です(図2).あの映画が作られてから80年ぐらいになりますが,映画の内容と同じことが現実に起こり始めているのが現代なのではないかと思うときがあります.このような時代であればこそ,私たちは今何をすればいいのかを振り返ることが必要なのでしょう.当然,大きな事故だと,事故原因についての振り返りが行われ「二度とこのような事故は起こしません」という定番の台詞が何回もメディアに流れますが,それが見事に裏切られた事実も私たちは多数知っています.「モダン・タイムス」が現実味を帯び出したこの時代には,機械と共生するためには何が大事なのかを改めて問い直してみるべきなのでしょう.

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 この技術過信の延長線上として,私たちが考えねばならない対象としてロボット技術があります.今や,工場の生産現場ではロボットが生産力の主力の労働力となってきている状況があります.この現実は私たちに,製品のコスト低下という恩恵を与える半面,技術的課題に対して,人間が関与し判断する場面をますます少なくしてしまうという側面も持ってしまいます.更に,AI(Artificial Intelligence)の発展に伴い,ロボットに知能を与えるという方向に技術は進みつつあります.私たちは,この方向性が果たして正しいのかどうか,更にはその時代への適切な対応についても検討を始める時期に来ているのではないでしょうか.

3.人間は考える葦である

 内なる反省という意味の内省という言葉があります.自身の行いを「振り返り」確認するという意味ですが,自身の行いを振り返ることは難しくもありますが,また同時に非常に大切でもあります.一方で,原因と結果を振り返り,その過程で自身が行ってきたこと,判断してきたことが結果にどのような影響を与えたのかについて考え出しますと,自分自身は何者なのか,一体何をしているのだろう,といろいろなことに思いが巡ることになります.また,5年前の自分と今の自分は果たして同一人物なのか,生きるとは何なのか,時間とは何なのか,というような哲学の世界に一部入っていくようです.このように,「考える」一歩として内省することは,人が生きていく上で重要な要素となるのでしょう.

 「人間は考える葦である」という哲学者パスカルの言葉があります(図3).人間の尊厳の全ては考えることの中にある,と人間の存在意義を言い切った名言です.このことから,「考える」ということは人間の最も重要な行為であり,これが内省すなわち「振り返る」ことに適切につながっていくと,未来に向けて自分自身をコントロールする力が養えるようになるのでしょう.しかしながら,その一番の根幹である「考える」ことまでを機械に任せる機械過信主義が続くと,動物園で飼育される動物たちが野生を失っていくのと同様に,人間の持つ本能としての「考える」能力がますます弱くなっていくのではと危惧されます.

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4.「検索」を考える

 人は,「考える」を放棄すると,過去を模倣し,前例に従うようになるようです.それでも,一昔前のアナログ時代のように,それぞれが独立し全てを見ることができない状況下であれば,幾ら模倣していてもどこかのステップでは考えねばならない課題に必然的に遭遇します.そして,そのことによって考える力が鍛えられると同時に独自性が現れてくることになるのでしょう.しかし,IoT(Internet to Things)と呼ばれているようにインターネットで全てがつながろうとしている現在の環境下ではどうでしょうか.自分自身は考えているつもりでも,実は考えているのではなく,インターネット上の検索結果を借用する方向へ,結論は流れてしまうのではないかと思います.

 インターネットの持つ膨大なデータ量は,私たちがその情報を適切に管理して制御できる限界を既に超えてしまっています.そのため,私たちはデータを絞り込む作業のために手軽な手段として「検索」を多用します.検索エンジンは,冗長度を限りなく減らして,目的事象の近距離にあるデータにできるだけ速くたどり着くことを念頭に設計されています.したがって,誰が検索しても最終の検索結果は平均的で同質の情報になってしまう傾向が強いようです.確かに,検索のキーワードを意識的に選択するとある程度の深掘りはできるのでしょう.しかし,そのキーワードもやはり平均的であり,その検索も必然的に同じような結果に行き着くようです.

 誰が実行しても結果はさほど変わらないとなると,このような「検索」の繰り返しは,時にして‘ひと’の思考停止を引き起こしてしまう危険性をはらんでいます.「考える」を止めたとき,人々は情報をうのみにし,その信ぴょう性を疑うことなしにその情報を使うようになってしまうと思われます.このような状況下では,科学技術の発展に必要な,良質の思考連鎖は生じなくなり,結果としてその進化は停滞し,社会の思考形態はますます均一化するということにもなりかねません.そもそもインターネット上の膨大なデータは全て過去の結果の蓄積物であり,そこには未来についての予測はあってもデータはないという事実に思いを至らす必要があるように思います(図4).

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 さて,この考察からも推察できるように,インターネットをベースにしたとしても「検索」だけでは科学技術の継続的発展を推進するのはやはりまだ難しいようです.また,インターネットを多用すると,表面的な検索となりやすくこれを繰り返すことによって,探求すべき本質事象からの距離が更に遠くなっていく危険性もあることを認識する必要もあるのでしょう.

5.「検索」からの脱皮

 この状況を変えていくためには私たちは何をしなければならないのでしょうか.同じような結果に必然的に行き着くインターネットの「検索」という機能は,果たして科学技術の発展にとって良いことなのか,悪いことなのか,様々な考えを巡らす必要があるようです.

 IoTというキーワードに象徴されるように,インターネットで全てがつながろうとしている時代に「検索」に重きを置いた展開をこのまま続けていくとどのようになるのでしょうか.現代の機械過信はすなわちコンピュータ過信へとつながると思われます.コンピュータは間違いを起こさないと過信してしまうと,人の答えよりもコンピュータの答えを信用してしまうようになります.医療現場においてでさえも,血液検査結果のデータばかりを見て患者の脈拍さえ見ないという現実が生じているのは象徴的な予兆でしょう.このような現状にあるとき,私たちはどのようにしてこの状況を乗り越えていかねばならないのかにも思いをはせる必要があるのでしょう.

 ある大学の入学式の式辞で学長が「君らの手にあるスマートフォンを捨てなさい」と語り掛けたとの報道がありました.この言葉は,今の社会に一石を投じたと思います.これは,「検索」に頼らないでまず自身の頭で考えなさい,とのフレッシュマンへ向けてのメッセージでしょう.しかし現実には,スマートフォンにとらわれている「モダン・タイムス」現象が進みつつあり,この状況が続くと,スマートフォンに自分自身を入れ込んでしまう状況が多発して,結果として思考の自殺行為が生じることが懸念されます.

6.「揺らぎ」を考える

 さて,人は,顔形,体形,考え方等これら全てが本来同一ではなく,結果としてその違いが個性となっています.でも私たちはそれを「人」としてまとめてしまっているところに考え方の一つのヒントがあるのではないでしょうか.このような人が内包する揺らぎは,DNAの組合せ数が無限大ということに起因しているのでしょう.一方,コンピュータの検索結果にはこのような揺らぎが存在しません.どこからスタートしてもゴールとしてはほぼ同じ結果を探してくれることになります.このような揺らぎのない世界では,ブレークスルー的進化は難しくなるのでしょう.人類が進化を続けている背景の一つにこのような揺らぎがあり,人間たる根源である「考える」についても継続的な進化発展には個性に基づくような揺らぎの存在が必要なのでしょう.

 このような思考の揺らぎを準備するために重要なのは,個々人が自身のワールドを常に「意識」し,それぞれの脳の中に興味を持っているキーワードをどれだけ持っているかということではないでしょうか.人が何かを試したいと思うときには,そのことを思い続けること,すなわち「意識」し続けることが重要となります.例えば「イチローのようになりたい」と思い続けると,野球が好きになることはもちろん,野球関係の様々な情報に意識が向き出します.この結果,必然的に自身の脳中の記憶領域の引き出しの中にキーワードがたまることになり,それがすなわち目的対象に対する自身の意識そのものなのでしょう.この引き出しを持って毎日生活していると,身の回りにあふれている情報の中からそれと相性の良い関連情報がおのずと先方から近寄ってくるという現象が起こります.それが「見えざる手」が導いた「出会い」なのでしょう.

7.テキストからイメージへ

 図書館や書店でたまたま手にした本,博物館や美術館を訪れたときの展示物や絵画,あるいは,誰かとすれ違ったとき,聴こえてきた言葉がきっかけになって人生が変わる.このような現象は一見受け身のようですが,聴いた人,感じた人が「意識」してそのことを個々の脳内の引き出しに入れてなければ多分受け流していたのだと思います.現代はありとあらゆる情報が私たちの身の回りにあふれています.これらの情報の流れは速く,またほぼ全員に平等に流れているのですが,この中から必要な情報を的確にピックアップできるかできないかは,目的探究への強い「意識」がキーワードとして脳内に準備されているかどうかの違いに掛かっているのでしょう.

 脳は非常にたくさんのメモリからできていると言われています.脳の中の情報はどのような形で蓄えられているのでしょうか.少なくとも,コンピュータのデータのように,テキストベースでしっかりと分類された揺らぎのない形で入っているのではないのでしょう.このようなものでどうだろうという程度のぼやっとした,揺らぎを含んだイメージベースで脳の中に分散して蓄積されているのでしょう.それが,出会いに伴う視覚や聴覚等の五感の刺激のトリガで脳内のドロドロしたカオス的状況が一瞬にして結像して「何か」を思い浮かべる,これが正しく脳内における「出会い」の瞬間となるのでしょう(図5).このような脳内のイメージは,目的対象を「意識」したときに分散状の引き出しとして脳内に形成されるのでしょう.そのため,目的意識や問題意識を持たずにただ単に口を開けて待っているだけでは,一生涯意味のある「出会い」は訪れないのでしょう.常に問題意識あるいは興味を持ち続け,その考えた結果をキーワードとして脳内に引き出しを持つこと,これが創造性の発露には重要なのでしょう.

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8.「考える」ことによる「出会い」の連鎖へ

 上述したように,科学技術の発展には「考える」ことがその基本です.ここでは「考える」ことによる本質理解について,ニュートンを例に挙げて考えてみましょう.ニュートンが,りんごが落ちるのを見て万有引力の法則を発見したというのは逸話かもしれませんが,ここでの議論はその真偽には無関係ですので,この逸話を拝借します.さて,ニュートンがこの法則を発見する以前の太古からりんごは地上に落ち続けており,どの時代の誰もがりんごが落ちるという現象は認識していました.また,ケプラーの法則にも見られるように,ニュートン以前にも,天体や物質間で生じる力の存在は既に知られていました.ニュートンの秀でているところは,これらの事実を支配する本質は何なのだろうかという視点で考えたことでしょう.すなわち,月が地球に向かって落ち続けることと,身近な例であるりんごが地球に落ちることの本質的等価性を見抜いたことであるのでしょう.この例からも分かるように「何が本質なのか」という視点から対象を「考える」ことが極めて重要であるということになるのでしょう.また,この考える行為によって得られる「気付き」が,次の新たな気付きを求めようとする知的好奇心の連鎖を生み出す大きな原動力となっているということが重要になるのでしょう.

 本来,「考える」という行為は人にとって生来的な享楽です.人は考えることを決して嫌がっているわけではないという人の持つ本質的な点は,今後の科学技術の発展のキーワードである創造性を考える上で,若い諸君はもっと注目すべきでしょう.

 さて,ニュートンが示したように,創造性を発揮するには物事の本質を見付けることが重要になります.これを実践するには,考察対象を,自らの言葉で説明できる能力を身に付ける努力を継続し続けることが必要となるのでしょう.単純に言えば常に「考え,考え,考え抜くこと」であり,この行為を通じた考察対象に対する本質や普遍性の追及なのでしょう.本質を見つけるということは,考察対象を「木」に例えると,まずは枝葉の削除であり,更には幹を解体して形をなくし最後には表皮をもはぎ取って,ぶよぶよとして形の定まらない概念系にまでその対象を落とし込むことでしょう.この過程で当初はテキストベースの知識として左脳に蓄えられていた考察対象が,最終的にはイメージとして右脳にとどまることになります.すなわち,テキストからイメージへと変換することが本質を考える創造行為にとって極めて重要であることになります.このことによって,考える力が内在化し,自主的かつ独創的な思考能力が身に付くと同時に「考える」ことが楽しくなるのでしょう(図6).

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 また,目的事象に対して深い思考を続けると,脳の持つ連想機能すなわち偶発的な「出会い」機能が脳内に誘発されます.その結果,そこには従来思考とは異なる高品質な思考連鎖が出現し,この連鎖は同時に科学技術進化のブレークスルーに結び付くと考えられます.更に,深い思考に基づいた者同士の相互のディスカッションは,知的好奇心を更に誘発して「出会い」へとつながる連鎖を生み出し,この結果として更なる進化が生まれる可能性が高くなると思われます.

 易しそうに見えて考え続けることは結構難しいことです.しかしこれからの100年を見据えると,若い学生・研究者諸君には「考える」時間を十分に確保することをお願いしたく思います.特に,学生諸君は大学という知的アミューズメントランドで,考えるためのたっぷりの時間,良き師や友との新たな出会いがあることでしょう.「出会い」の中で気になった言葉を調べることから話を幾らでも展開できるようになります.ただし,唯一つの条件として,その対象に対する「意識」を持つことが必須となるのでしょう.「考える」すなわち「意識を持つこと」これに徹底的に努めるべきです.なお,ニュートンの場合においても,彼の大法則の発見の裏には,ロバート・フックとの「出会い」(確執)とフックの考えに対するニュートンの「意識」があったのだろうと思われます.

9.お わ り に

 現代の学生たちの思考パターンの様子を見ていると,何事に対してもまずは「検索」から入るというのが日常化しているようです.このことは,結果(答え)を早く知るという意味においては有効かも分かりませんが,本質を考えるという科学技術発展の基礎の観点からは余り推奨できないように思います.どのような対象をどのようなレベルで「検索」するかにもよりますが,例えば修士論文等の研究課題を探索していたとすると,少し奇妙なことにもなりかねません.「検索」に引っ掛かってこなければこれは「新しい」として研究対象にするというオプションもあるように思いますが,現実には重箱の隅をつついているだけということの方が多いように思います.やはり「検索」の前にするべきことがあるようです.それは今取り組もうとしている事象が,その事象の本質なのかを見極めるということでしょう.近未来を担うであろう学生諸君には,自身の思考範囲を自ら狭める「検索」ばかりを続けるのではなく,ブレークスルーの宝庫でもある新たな「出会い」を求める深い思考の術を身に付けてほしいものです.「振り返る」こと,「考える」こと,これらから得られた様々な事象を頭の中に蓄積して,そして次世代を乗り越えていく,この行為によって,私たちの未来に初めて明るい出口が見え出すのだと思います.これに反して,「考える」をやめたとき,進化は停止して,人や物が全て同一化へと向かい,区別のつかないものになっていきます.

 自分自身の今までやってきたことを一度振り返ってみて下さい.このような特集号の記事との「出会い」も振り返りを持つ一つのきっかけにして下さい.振り返り,考えなければキーワードは手に入りません.キーワードを手に入れ意識することによって,次の「出会い」が生まれて乗り越えるステップが開けてきます.この拙文が,「考える」楽しさを生きる楽しさへと昇華するきかっけになれば幸いです.

(平成29年1月6日受付 平成29年1月29日最終受付)

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(わた)(なべ) (よし)(あき) (正員:フェロー)

 昭49同志社大大学院修士了,同大学生命科学部教授.工博.学部長,副学長,日本音響学会会長等を歴任.非線形音響技術,熱音響技術,こうもりの生物ソナーに関する研究等に従事.応用物理学会解説論文賞,日本音響学会佐藤論文賞(2回),USE論文賞,JJAP編集功績賞等各受賞.


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