電子情報通信学会 - IEICE会誌 試し読みサイト
Vol.109 No.8 (2026/8) 目次へ

前の記事へ次の記事へ


タイトル

電子情報通信学会 複雑コミュニケーションサイエンス研究専門委員会

光行列ベクトル演算

菅野円隆(埼玉大学)

kkanno@mail.saitama-u.ac.jp

本会ハンドブック「知識の森」

https://www.ieice-hbkb.org/portal/doc_index.html

1.光行列ベクトル演算とは

 光行列ベクトル演算とは,光の物理現象を利用して行列ベクトル積(Matrix-Vector Multiplication, MVM)を瞬時に実現する技術である.光行列演算,光ベクトル行列演算と呼ばれる場合もある.

 深層学習の発展に伴い,大規模な行列演算を高速・低消費電力で処理する技術が求められている (1).これに対して光コンピューティングでは,光の広帯域性と高速性を活かし,ニューラルネットワークの計算の大部分を占める行列ベクトル積を高速かつ低消費電力で実行する研究が行われている (2),(3),(4)

 図1に基本的なニューラルネットワークの構造を示す.入力層のニューロンmathは中間層の1層目と結合している.出力層のニューロンmathは中間層の最後の層と結合している.中間層の第math層のニューロンの出力をmathとして表す.ここでmathは活性化関数である.各ニューロンへの入力mathは,第math層の出力mathと結合重みmathを用いてmathと表される.このときmath層目への入力は,以下のように表される.

math

図1のニューラルネットワークは,式(1)の右辺の行列ベクトル積と活性化関数mathの組み合わせで実現できる.このうち,各層のニューロン数が増加すると行列ベクトル積の計算コストは爆発的に増大する.これに対して近年の深層学習では,GPUによる並列計算が用いられているが,消費電力の増大が課題となっている.

 光行列ベクトル演算では,入力を光の強度や位相として表現し,重みを光回路の透過率や位相差として与えることで,光の伝搬・干渉過程により演算を実現する.この方式は光の伝搬速度で計算が完了し,高いエネルギー効率と低遅延が期待される.本稿では代表的な3つの実装方式について述べる.

2.空間光変調器を用いた実装

 空間光学系を用いた実装は,光の空間的並列性を利用する手法であり,空間光変調器(Spatial Light Modulator, SLM)を用いて行列ベクトル演算を実現するものである (3),(4),(5).基本的構成を図2に示す.まずレーザアレイのような光源を1次元に並べて入力ベクトルmathを生成する.この信号光をレンズ(シリンドリカルレンズ)によって縦方向に拡大し,2次元のSLMに入射させる.SLMの各ピクセルは重み行列mathの各要素mathmathmathはそれぞれ行および列番号)に対応し,ピクセルごとに透過率を変化させることで「重み付け」を行う.SLMを通過した光は,別のレンズによって今度は横方向に集光され,光検出器アレイで検出される.このときの検出光強度が出力mathに対応する.この「拡大・変調・集光」のプロセスにより重み付き線形和が計算され,1回の光伝搬で行列ベクトル演算の結果が得られる.

 この方式の最大の利点は,空間的な広がりを利用するためスケーラビリティに極めて優れている点である.一方で,レンズやSLMを用いるため装置が大型化しやすく,振動などの外部環境の変化に弱いという課題がある.近年では,これを平面集積回路上に実装する試みも進められている.

3.光マイクロリング共振器を用いた実装

 光マイクロリング共振器(Microring Resonator, MRR)を用いた実装は,光集積回路上で波長分割多重(Wavelength Division Multiplexing, WDM)技術を利用する手法である (3),(4),(6).MRRは微小なリング状導波路であり,特定の波長の光のみを共振させて通過させる性質を持つ.共振波長を熱や電圧で制御することで,特定波長に対する透過係数を調整できる.この透過係数がネットワーク結合重みに対応する (6)

 図3にMRRを用いて行列ベクトル積を実現するシステム構成の概念図を示す.まず異なる波長mathの光強度として入力ベクトルの各要素mathを乗せて多重化する.この波長多重化信号光をそれぞれの導波路に分配する.各導波路には,各波長に対応するMRRが並んでおり,それぞれが個別に重み付けを行う.最後に導波路の終端で全波長の合計強度を検出することで積和演算が行われる.

 MRRは極めてコンパクトであるため,チップ上への高密度集積に適している.また,既存の光通信用WDM技術をそのまま転用できるため,演算の並列化が容易であるという強みを持つ.

4.光干渉計を用いた実装

 光干渉計,特にマッハ・ツェンダー干渉計(Mach-Zehnder Interferometer, MZI)を用いた実装は,光の位相情報を利用して行列ベクトル演算を実現する手法である (3),(4),(7).図4(a)に位相シフタ付きMZIの概念図を示す.MZIは光の干渉と位相シフトを利用して出力ポートの光強度を制御することができる.特に図4(a)のMZIは,以下の2×2ユニタリ変換UMZIを実現できる.

math

ユニタリ変換UMZIを利用することで,図4(a)の入出力関係は次のように表される.

math

一般に,mathのユニタリ変換は,多数の2×2ユニタリ変換の積に分解できることが知られている.例として,図4(b)は4×4ユニタリ変換を実現するMZIアレイの概念図である.4×4ユニタリ変換を実現するために6個のMZIが使用されている.

 一方で,任意のmath行列mathは特異値分解によって次のように分解できる.

math

ここでmathmathユニタリ変換,mathmathユニタリ変換であり,mathは対角成分に特異値を持つmath矩形対角行列である.ここで行列mathおよびmathはユニタリ変換であるため多数のMZIにより実現できる.また行列mathは,最大特異値が1以下となるような規格化を行うことで光減衰器を用いて実現できる.以上のように任意の行列変換を多数のMZIを利用することで表すことができる.この手法を用いて式(1)を実現したものが光干渉型の行列ベクトル演算である.1つのユニタリ変換を多数の2×2ユニタリ変換の積に分解するアルゴリズムとして,Reck (8)やClements (9)の分解が提案されている.

 近年では,光干渉計に基づく行列ベクトル演算を実用的なAIアクセラレータとして実装する研究も進展している.例えばLightmatter社は,光干渉を利用したフォトニックテンソルコアと電子回路を統合したハイブリッド型プロセッサを開発している (2).このシステムでは,行列ベクトル演算をMZIアレイで高速・低消費電力に実行しつつ,制御や非線形演算を電子回路で担うことで,実用的な深層学習モデルの実行を可能としている.このように,光干渉型の行列ベクトル演算は,原理実証から実用的なAIハードウェアへと発展しつつある.

5.展望と課題

 本稿で紹介した光行列ベクトル演算は,空間光学系,マイクロリング共振器,光干渉計といった異なる方式により発展してきた.さらに近年では,これらを組み合わせたフォトニックAIアクセラレータも登場し,実用的な応用に向けた動きが加速している.一方で,いくつかの課題も残されている.まず,光は線形演算に適している一方で,ニューラルネットワークに必要な非線形処理は依然として電気回路に依存しており,これが効率の制約となっている.今後は,光と電子の役割分担を踏まえたシステム設計や,デバイスとアルゴリズムを一体的に最適化する取り組みが重要になると考えられる.光行列ベクトル演算は,次世代のAIハードウェアとしてさらなる発展が期待される.

文     献

(1)Neil C. Thompson, Kristjan Greenewald, Keeheon Lee, and Gabriel F. Manso, “The computational limits of deep learning,” MIT INITIATIVE ON THE DIGITAL ECONOMY RESEARCH BRIEF, vol. 4, pp. 1-4, 2022.

(2)S.R. Ahmed, R. Baghdadi, M. Bernadskiy, et al. “Universal photonic artificial intelligence acceleration,” Nature, vol. 640, pp. 368-374, 2025.

(3)J. Cheng, H. Zhou, J. Dong, “Photonic Matrix Computing: From Fundamentals to Applications, ”Nanomaterials, vol. 11, no. 7, 1683, 2021.

(4)成瀬誠,“現代光コンピューティング入門,”コロナ社,2024.

(5)H.H. Zhu, J. Zou, H. Zhang, et al., “Space-efficient optical computing with an integrated chip diffractive neural network,” Nat. Commun., vol. 13, 1044, 2022.

(6)J. Feldmann, N. Youngblood, M. Karpov, et al., “Parallel convolutional processing using an integrated photonic tensor core,” Nature, vol. 589, pp. 52-58, 2021.

(7)Y. Shen, N. Harris, S. Skirlo, et al., “Deep learning with coherent nanophotonic circuits,” Nature Photon., vol. 11, pp. 441-446, 2017.

(8)M. Reck, A. Zeilinger, H.J. Bernstein, and P. Bertani, ”Experimental realization of any discrete unitary operator,” Phys. Rev. Lett., vol. 73, pp. 58-61, 1994.

(9)W.R. Clements, P.C. Humphreys, B.J. Metcalf, W.S. Kolthammer, and I.A. Walmsley,” Optimal design for universal multiport interferometers, ”Optica, vol. 3, no. 12, pp. 1460-1465, 2016.

(2026年4月5日受付)


続きを読みたい方は、以下のリンクより電子情報通信学会の学会誌の購読もしくは学会に入会登録することで読めるようになります。 また、会員になると豊富な豪華特典が付いてきます。


続きを読む(PDF)   バックナンバーを購入する    入会登録

  

電子情報通信学会 - IEICE会誌はモバイルでお読みいただけます。

電子情報通信学会誌 会誌アプリのお知らせ

電子情報通信学会 - IEICE会誌アプリをダウンロード

  Google Play で手に入れよう

本サイトでは会誌記事の一部を試し読み用として提供しています。