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グローバル科学社会シリーズ――インドネシア編――
小特集 2.
インドネシアと日本のICT分野の職場環境と教育研究交流
Working Environment and Education-Research Exchange in the ICT Field in Indonesia and Japan
Abstract
本稿では,17世紀から続く日本とインドネシアとの交流の歴史を紹介し,インドネシアと日本におけるICT分野の職場環境と教育研究交流を紹介する.インドネシア教育制度の章では,インドネシアと日本の教育環境,大学選抜試験制度,インドネシア政府教育文化省規制,キャパシティビルディングと教育インフラについて述べる.インドネシアと日本の教育研究交流の章では,ダブルディグリープログラム,TWINCLEプログラム,インドネシア・日本合同学術シンポジウム,ICT先端教育・研究交流,国際インドネシア科学者協会を紹介する.これらの学術交流によって,今後両国の電子情報通信分野における研究と教育の共同活動強化になることを期待する.
キーワード:交流の歴史,ICT分野,教育制度,学術交流,先端研究
日本とインドネシアの交流は,17世紀に遡る.文献によると,オランダ領東インド(現在のインドネシア)に日本人の移住者が住んでいたことが記録されている(1).1898年のオランダ領東インドの記録には,614人(男性166人,女性448人)の日本人が在住したという記録がある.1909年,日本はバタビア(現在のジャカルタ)に領事館を設置した.そのとき,ジャワ島から農作物を日本に持ち込み広げた.その中には,ジャワ芋という芋があり,現在のジャガイモと呼ばれるようになったと言われている.また,1920年代,沖縄の漁師が北セレベス島に定住し始めた.北セレベス島の首都マナドには日本人のための小学校があり,1939年には18人の生徒がいた.インドネシア語の「混ぜる」を意味する「チャンプル」が,ゴーヤチャンプルの語源になったとも言われている.1938年には,計6,349人の日本人がインドネシアに住んでいた.
1942年,大日本帝国は東南アジアに侵攻した.日本はオランダ軍を破り,首都バタビアを植民地時代の地名であるジャヤカルタ(Jayakarta)に戻すが,日本人には発音しにくかったため,ジャカルタ(Jakarta)に省略したと言われている.
1945年4月29日,日本の占領軍は,インドネシアが独立を果たすために,第16軍の司令官である原田熊吉中将によって,日本人が組織した委員会であるインドネシア独立準備調査会(BPUPKI)を組織した.この組織を通じてインドネシアの独立会議が準備され,日本の公的な支援を得ることなく,1945年8月17日,スカルノ氏とハッタ氏とインドネシアの若者によってインドネシア共和国の独立を宣言し,スカルノ政権が誕生した.そのとき,約3,000人の大日本帝国陸軍軍人はインドネシアに残り,オランダ軍・連合軍を相手にインドネシア独立戦争で戦った.1950年代,日本とインドネシアは1958年に平和条約を締結し,国交を樹立した.その後,インドネシア共和国を立て直すために,日本に若手研究者を派遣した.1949年に創立された千葉大学で,日本語教育を行い,一部のインドネシアの若者を受け入れた.日本語教育を受けてから,彼らは日本全国の大学に留学している.図1に示すように,2019年現在日本在住のインドネシア出身留学生が6,756人で,この数字は日本在中留学生の2%に当たる.ASEAN出身留学生の7%に相当する.
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