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Vol.109 No.8 (2026/8) 目次へ

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タイトル

世界が諦めても,実験はやめなかった.

──青色LED開発を支えた執念──

天野浩(名古屋大学)×植松友彦(電子情報通信学会会長)

(2026年5月7日機械振興会館にて開催)

出席者

天野 浩 名古屋大学 特別教授

植松友彦 電子情報通信学会会長 放送大学東京渋谷学習センター所長・特任教授

[植松]本日は,青色発光ダイオード,窒化物半導体といった分野で数々の先駆的な業績を残された名古屋大学の天野 浩先生をお迎えしております.先生は,地球規模の省エネルギーを実現するLED照明の基盤となる青色発光ダイオードの実用化に決定的な貢献をされた研究者として国際的にも高く評価され,2014年に赤﨑 勇先生,中村修二先生とともにノーベル物理学賞を受賞されています.本日は,先生の研究者としての歩みや研究哲学についてじっくりと伺ってまいりたいと思います.どうぞよろしくお願い致します.

[天野]よろしくお願いします.

【第1部:大学院時代について】
~研究者としての原点~

[植松]まずは先生の原点に迫らせて下さい.研究者として歩もうと決意されたのは,どのようなきっかけや体験からだったのでしょうか.

[天野]私が研究をずっとやりたいと思ったのは,修士から博士に上がったときですね.博士に上がったら,もう研究者として博士号を取らないとしょうがないということで,博士号を取るために必死にやっていました.当時は博士課程に残ろうという人もそんなに多くなくて,赤﨑研究室でも私のほかに中国からの留学生が一人だけでした.博士に残れたというのが,研究者としてこれまでやってこられた原点かなと思っています.

[植松]博士に進むにあたって,赤﨑先生からも「進んだ方がいいよ」というお勧めがありましたか.

[天野]はい,学部4年の頃から赤﨑研究室にずっとお世話になっていて,4年生,それから修士1年,修士2年と,全く成果は出ていなかったんですけれども,実験だけは本当に必死にやっていたので,そういった姿を赤﨑先生が「もうちょっとやってみたら」と思って下さったことにつながったのかなと思います.

[植松]私からすると,実験で成果が出ていなかったら,博士に行って大丈夫なんだろうかと,逆に心配すると思うのですが,そうはお考えにならなかったですか.

[天野]そうですね.ただ,実験自体はものすごく面白くて.私は工学部の電気工学だったんですけれども,授業での学生実験というのは正直言って教科書に書いてあるとおりで,あまり面白くなかったんですね.ですが,卒業研究を始めたとき,赤﨑研ってものすごく,言葉は悪いんですけど貧乏だったんです.既製の装置というのは購入できなくて,結晶を作る装置さえも自分たちで作らないと何も始められないということで,実験,つまり結晶を作る装置から自分たちで作るということが本当に楽しかった.それで続けられたんじゃないかなと思います.

【第1部:大学院時代について】
~多難だった大学院時代の研究~

[植松]大学院時代にはどのようなテーマに取り組まれていたのでしょうか.

[天野]私は学部のときからずっと青色LEDの研究に取り組んできました.材料は窒化ガリウムという材料です.先ほども言いましたとおり,学部のとき,修士1年,修士2年と全く成果は出なかったんですけど,修士の最後にきれいな結晶を作ることに成功しまして,それで博士課程に進みました.博士のときは,きれいな結晶ができたから次はLEDだということで,特に当時,窒化ガリウムはp型ができていなかったので,p型の窒化ガリウムを作るんだと自分で決めたんですけど,いくら結晶成長してもp型にはならず,博士の3年間は毎日ストレスのかかる辛い時代を過ごしました.

[植松]毎日ストレスがかかる頃,どう切り替えて研究や実験に向かっておられたのでしょうか.

[天野]当時,赤﨑研究室は比較的自由で,朝何時に来てもよかったんですね.だから朝10時とか11時に来て実験を始めるんですけど,そこから準備して結晶成長の実験を4回とか5回やります.夜の9時,10時になると疲れ切ってしまって,下宿にスクーターで帰っていたんですけど,そのときにはもうダメだと思って帰るんです.ただ,次の日の朝起きるといろいろアイデアが出てきて,「これをやったらうまくいくんじゃないか」ということで,夜になるとモチベーションはゼロになるんですけど,朝になるとまた上がって,というものの繰り返しでしたね.

[植松]朝になるとまた新しいアイデアを思いつくところが,先生のすばらしいところかなと思います.

[天野]ありがとうございます.

【第2部:窒化ガリウムの研究について】
~研究の始まり~

[植松]窒化ガリウムの研究についてお聞きしたいと思います.窒化ガリウムの研究に取り組まれるようになった背景を教えて頂けますか.また,先生はどのような問題意識や好奇心から,この窒化ガリウムの半導体の分野に入っていかれたのか,その点をお願い致します.

[天野]卒業研究で始めたので,4年生のときなんですけど,3年生のときまでは当時マイコンがブームになり始めた頃で,1969年にアポロ11号が月面着陸に成功したときに,そのコンピュータがものすごく貢献したという話を聞いていました.その後,マイクロソフトがビル・ゲイツらによって設立されて,その次の年にアップルが設立されたということで,私もマイコンにものすごく興味があって,大学1年生のときに勉強を始めました.ただ当時はPCがすごく高かったのでなかなか購入できず,1年生の夏休みにすごく大変なアルバイトをしてお金を貯め,マイコンを買いました.当時買ったのは富士通のFM-8で,モトローラ社の6809 CPUを搭載した,当時としては画期的なマイコンでした.それでプログラミングをやっていて,作っていたのはインベーダーゲームとかゲームだったんですけど,BASICを打ち込めばゲームができる.「これはすごい,世の中が変わるに違いない」と思って,是非学部4年生でもその研究をやりたかったんです.でも残念ながら,名大には当時CPUの研究をしているところがなかったんですね.

 ただ,CPUって何でできているかというと半導体で,赤﨑研究室の卒業研究のテーマに「ガリウムナイトライド(窒化ガリウム)を用いたデバイス」というのを見たときに,「これも半導体だ」ということで研究を始めました.

[植松]ほかに半導体の研究室はなかったんですか.

[天野]当時はソフトウェアの研究はあったんですけど,本当にもっと学術的な,例えばシャノンの定理とか,そういった理論寄りの研究をしている研究室はありましたが,CPUの設計とか,LSI設計のような実学に近いところは,私の目には止まりませんでした.もしかしたらあったのかもしれませんが,私が学部4年のときは1982~83年ですからね.私の目には入らなかったですね.

[植松]それが赤﨑先生との出会いということですね.

[天野]はい.

【第2部:窒化ガリウムの研究について】
~青色発光ダイオード実用化の 独創的アプローチ~¶hbox to4zw∈∋

[植松]先生の代表的な研究成果として知られている青色発光ダイオードの実用化は,不可能を可能にしたものだと思います.そこで,当時の青色発光ダイオードは世界的にはどのようなアプローチが主流で,それに比較して赤﨑先生と天野先生のアイデアのどこが独創的だったのか,そのあたりを教えて下さい.

[天野]独創的なところって,特になかったと思うんですけど….まず,今使われている青色LEDの材料は窒化ガリウムなんですね.これは非常に昔から研究が進んでいて,1970年代に欧米の研究者が研究していました.1971年には青色LEDもできていました.ただ,そのときの青色LEDというのはMIS型で,今のpn接合ではなく,金属と絶縁体と半導体の積層によるLEDだったので,効率がすごく悪かったんです.

 作る方法もハロゲン,つまり塩化水素とガリウムを反応させて塩化ガリウムを作り,それとアンモニアを反応させて窒化ガリウムを析出させるHVPE法だったので,これがまた制御が非常に難しかった.基板も窒化ガリウム基板がなかったので,サファイア基板上に成長させるのですが,歩留まりが極めて悪いということで,1970年代後半から1980年代には,世界中の著名な研究者が諦めてしまったんですね.それまでは欧米で,日本だと日立,沖電気などが非常に注力して開発を進めていました.

 皆が諦めたところに赤﨑先生が出てきた.先生は赤や緑のLED開発で大きな成功をされていて,当時はナショナル(松下電器,現パナソニック)におられましたが,「残るLEDの色は青だ」ということで研究をスタートさせたのが1974年です.1981年には窒化ガリウムを用いた青色LEDでMIS型,1971年にパンコーブ氏が最初に作った方式の青色LEDを作り,効率も最高で0.12%まで上がりました.ですが,歩留まりが非常に悪いのと,効率がまだまだ低いということで,会社は開発をストップしてしまったんです.

 そこで赤﨑先生は,「私は会社を辞めて大学で研究を続けます」ということで名古屋大学に来られ,そこに私を入れてもらいました.先生は新しい物好きで,結晶を作る方法も,最初は欧米でよく使われている先ほどのHVPE法ではなく,モレキュラービームエピタキシー法(MBE法)という当時とても新しい方法でやって,うまくいかず大失敗したんですね.でも名古屋大学に来て,やっぱり新しい方法でやりたいということで,今度は有機金属化合物という原料を使って,有機金属化合物気相成長法(MOVPE法)で窒化ガリウムを作ることを始められた.そこから我々が入り,装置もないので自分たち学生が全部手作りで結晶成長装置を作って始めました.3年間苦労しましたけど,たまたまきれいな結晶ができたのが修士を終える頃でした.

 きれいな結晶ができたので,次は世界で誰もうまくいっていないp型をやろうと決めて,博士の3年間,精神的に苦労しながら続けました.博士のときにはできなかったんですけど,助手として赤﨑先生が拾って下さって続けることができ,助手1年目でpn接合ができました.今から考えると,独創性とかオリジナリティというより,とにかくできるまで粘ったのが良かったんじゃないかなと思います.

[植松]MOVPE法で作ろうと言い出したのも世界で初めてに近かったんじゃないですか.

[天野]はい,初めてに近かったですね.やっぱりそこはオリジナリティだと思いますし,p型を実際に作ったというのはオリジナリティだと私も思います.

[植松]窒化ガリウムの研究を続けるかやめるかで悩まれた瞬間はありましたか.もし続けると判断したときの決め手があれば教えて下さい.

[天野]この窒化ガリウムはとにかく面白い材料で,やめようと思ったことは一度もないですね.ただし危なかった時期はあって,修士2年になったとき,家からの仕送りがなくなってしまって,これからどうしようと.修士2年の秋だったので,今から就職活動しても間に合わないと思ったときに,ありがたいことに名古屋大学が当時の日本育英会の奨学金を,事情を話したら認めて下さって,博士課程に進むことができました.窒化ガリウムの研究を諦めずに済んだということですね.やっぱり博士に進むにあたって学費の問題はありました.

[植松]やめるということを選ばなかったのはすばらしいことだと思います.

[天野]ありがとうございます.

【第2部:窒化ガリウムの研究について】
~実用化に向けた企業との共同研究~

[植松]少し趣旨の異なる質問ですが,赤﨑先生のグループは青色発光ダイオードの実用化を目指し,トヨタ自動車グループの豊田合成株式会社と共同研究を行いました.赤﨑研究室と豊田合成の役割分担はどのようなものだったか,覚えていらっしゃれば教えて下さい.

[天野]まずスタートしたのが,私が修士2年の最後にきれいな結晶ができた1985年2月です.1985年11月に,当時の新技術開発事業団(現JST)の方々が「青色LED」を次の研究テーマにしようということで日本中の研究室を回っていたのですが,なかなかLEDにつながるような研究はなかったんですね.例えば低温で非常にきれいな励起子発光が見えるなど,基礎的な研究は多かったんですけど,LEDにしようという研究は当時まだなかった.

 たまたま事業団の方が赤﨑研究室を訪れたときに,窒化ガリウムのきれいな結晶ができていることを知り,「これは是非テーマとして取り上げたい」ということになった.ただ,まず特許が必要だということと,企業のパートナーが必要だということで,特許は私が草案を書かせてもらいました.パートナーについては,赤﨑先生が名古屋商工会議所で11月に講演を頼まれて講演されたとき,豊田合成の方がたまたま聞いておられて,「これは豊田合成でやりたい」とおっしゃって頂いた.そこで赤﨑先生から事業団に連絡して,スタートすることになりました.

 ただ,豊田合成は当時ゴムの会社で,半導体のことは全くやったことがなかった.そこで豊田合成から社員2人を名古屋大学に派遣して頂き,まず名古屋大学でMOVPEの研修を本当に真剣にやられました.1987年にプロジェクトがスタートし,そのうちに豊田合成でもMOVPE装置を準備されて,そこで量産技術開発を始められた.確か1991年には成功認定を受けられたと思います(年は違うかもしれません).

[植松]豊田合成はもともと半導体を作っていた会社ではなかったのですね.

[天野]豊田合成は当時半導体は全く作っておらず,車のインテリアでLEDは使われていたので,完全なユーザーでした.だから半導体の製造に関する知識は,私が言っていいか分かりませんが,ほとんどゼロだった.そういうところをパートナーにして一緒に作っていったというのは本当の話です.

 というのはですね,当時「青色LED」といえばセレン化亜鉛(ZnSe)だったんですよ.日立,東芝,ソニー,パナソニックといった名だたる日本のエレクトロニクスメーカーは皆,ZnSeをやっていて,窒化ガリウムをやっているところはなかった.だから当時のエレクトロニクス企業は,窒化ガリウムに全く興味がなかったんじゃないですかね.逆に言うと,当時エレクトロニクスをやっていたところが窒化ガリウムに興味を全く持たなかったから,新たなところが手を挙げた,ということですね.

[植松]これは全く知りませんでした.豊田合成の方で実際に半導体が作れるようになった段階で,研究室と豊田合成はどう役割分担されたのですか.

[天野]当時,新技術開発事業団との契約はまだp型ができていない時期でしたので,不純物としてZnを用いた古いMIS型のLEDを作る,というのが豊田合成に与えられたテーマでした.名古屋大学の方,特に私はp型を作りたかったので,p型の窒化ガリウムを作ることに特化していました.当時の技術で実現可能なMIS型のLEDを作るのが豊田合成,p型の窒化ガリウムを実現するのが名古屋大学,というふうに分かれました.

【第2部:窒化ガリウムの研究について】
~ノーベル物理学賞二つの研究~

[植松]ノーベル物理学賞の受賞者は赤﨑先生と天野先生のほかに,現在カリフォルニア大学サンタバーバラ校の中村修二先生を加えた3名です.中村先生と赤﨑・天野グループの研究内容について,どこが似ていてどこが異なっていたのかを教えて下さい.

[天野]まず,当時,名古屋大学と日亜化学工業さんとの研究における接点というのは全くありません.それぞれ全く独自でやりました.

 聞くところによるとですね,中村先生も昼夜を問わず実験ばかりやっていたと伺っていましたので,このスタイルに関しては非常に似ているなということは思います.

 名古屋大学との違いということで言うと,我々は例えばp型ができたら,次はLEDだ,レーザーだということになりましたけれども,日亜化学さんも当然同じなんです.ただ,日亜化学さんは大量生産の方法を確立しなければいけませんよね.ですので,結晶成長装置をいかに大型化するかということに注力されていたと思います.中村先生が出された有名な404特許というのがあるんですけれども,当時2インチが大型だったのですが,その2インチをしっかり作れるように,横から原料ガスを流し,上からたくさんのガスを流すという方法だったんですよね.このように,特に日亜化学さんは最先端プラス大量生産する技術,という点が違いといえば違いだったのではないかなと思います.

[植松]赤﨑先生と天野先生のグループが中村先生を知るようになったのは,いつのタイミングだったのですか.

[天野]中村先生は,我々がp型ができた頃にアメリカから帰ってこられて,それで研究を始められました.そこからの学会での発表は特にすごかったんですね.すごくアピールする発表だったので,最初に聞いてもすごく驚いた.「すごい方がいるんだな」ということを,1990年か91年,そのあたりで知りました.

[植松]そうすると,日亜化学さんの方は最先端のものを量産化するというところに注目があって,名古屋大学はまずLEDを作って,次にレーザーダイオードを作る,そういう方向に向いていった,そこが違いなんですね.

[天野]はい,そのように考えています.全く二つの間には接点はなかったです.

[植松]学会以外では接点は全くなかった,という理解でよろしいですね.

[天野]はい.研究における相談とか,そういったことは全くなかったです.

[植松]両者の研究者ともに,ずっと実験をし続けるところは大変よく似ているというのはよく分かりました.デバイスを研究される方は,実験を繰り返さないといいものはできないというのはよく分かります.

【第2部:窒化ガリウムの研究について】
~材料科学とAI~

[植松]ちょっと話がそれるかもしれませんけれども,AIを用いた材料科学の研究について先生はどのようなお考えをお持ちですか.

[天野]我々も一部使ったりしていますけれども,最適化するのにすごく便利なツールですね.どんどん賢くなっていますし,もし論文等のデータがあれば,それに基づいて内挿あるいは外挿して最適化するというのもAIはすごく得意ですね.ただし,「これはできない」ということで皆さんが諦めてしまって,あまりアピールのないような材料を作るのはどうかな,ということは感じています.

[植松]そうすると,一定以上のデータが集まるような材料については,AIを使った方が,最適化が得意だから早く良い結果が出るというふうに考えていますか.

[天野]はい.

【第3部:研究哲学について】
~良い研究とは~

[植松]研究哲学についてお聞きしたいと思います.先生がこれまでに取り組んでこられた研究テーマを選ぶ際の視点やプロセス,あるいは先生御自身が考える良い研究の要素について教えて頂ければと思います.

[天野]良い研究の要素ですか.そうですね.まず研究テーマを選んだのは,個人の経験からすると,最初は半導体というのにすごく興味があって始めましたけれども,この青色LEDは自分で実験ができるというのがすごく楽しくて,研究にのめり込んでいきました.ただ,ドクターに上がった頃には博士号を取らないと研究者としての将来がないので,その気持ちだけで実験を進めていました.

 良い研究,何でしょうね.私の場合,この青色LEDの研究をしていたのは,マスターの終わりからドクター,助手くらいまでですので,せいぜい年で言うと27,8歳.ノーベル賞が決まるまでは全く知られていない存在でしたので,そのときは54歳だったんですね.だからだいたい25年ぐらい経っているわけです.良い研究かどうかなんて,四半世紀経たないと分からない.ノーベル賞というのは,世の中の人が使って下さる技術なり学問ということなので,そういう点ではもうちょっと,やるときからはっきりしているのかもしれませんけれども,実際,25年後のことなんて分からない.ですので,自分がやりたい研究が良い研究じゃないかなと思っています.

[植松]先生は実用化,世の中に普及することを研究されるのがお好きなのかなと思っていたのですが,そういうわけではないんですか.

[天野]それはもちろんそうです.もともと工学部に入ったのも,選択としては理学部か工学部かというのがありました.理学部に入られる方は本当に学問が好きで,真理を追求するのが好きな方.私はそれはちょっと合わないなと.もともと家がそんなに裕福じゃない,というか貧乏だったので,世の中の役に立たないものを…あ,理学部が決して世の中の役に立たないものをやっているわけではないんですけれども,皆さんに特に使って頂いて喜んで頂けるようなものを作るというのが,中学・高校のときから意識としてあったように思いますね.そういうふうに考えていくと,やはり実用化できるものとか,世の中に使えるものを研究したいというのはあるんだと思います.

【第3部:研究哲学について】
~ブレークスルーを生み出す本質~

[植松]重要なブレイクスルーというのは,論理的な積み重ねの結果として生まれるものなのか,それとも直感的なひらめきによるものなのか,先生はどちらが本質に近いと思いますか.

[天野]どっちもだと思います.私も何回も実験しているって言いましたけれども,やみくもに実験しているわけじゃなくて,1回1回高い原料を使って実験するものですから,一生懸命考えなきゃいけないというのは常に思っていて,できる限り論理的に積み重ねて,「今度はこうやればうまくいくに違いない」と思ってやって失敗するわけですね.それを繰り返すんですけれども,運がいいときにそのブレイクスルーが生まれる.ずっと積み重ねて失敗してというのを繰り返すと,運がいいときにはそれが開かれるということじゃないですか.

[植松]直感的なひらめきの部分はあまり大きくないと考えた方がよいですか.

[天野]直感的なひらめきというのは,今まであまり考えたことがないですね.いろいろ情報があって,「別の分野のこの方法を適用すると,うまくいくかな」というのは当然研究者として考えることで,それをやるんですけれども,それでうまくいった試しは今までなかったですね.

[植松]地道に研究を積み重ねて,それから論理的な仮説思考を繰り返して成果を導かれているというのはよく分かりました.

【第3部:研究哲学について】
~失敗から学んだこと~

[植松]長年研究に携わっておられると必ずしも研究がうまくいかなかったという場合もあると思います.今振り返っても「あの失敗は痛かった」と思うような実験や判断はありますか.その失敗から実際に学んだものがもしあれば教えて下さい.

[天野]はい.ほとんど失敗ばっかりなんですけれども,大きな失敗というと二つありますね.一つは,最初,低温バッファ層というのを使ったらきれいな結晶ができたと.そのときに学会で言われたのは,「なんできれいになるんだ」,学問がないとか言われちゃうんですね.そこで「ちくしょう」と思って,原子レベルでの観察をすればそれが分かるんじゃないかということで,非常に高い透過電子顕微鏡を購入させて頂いて,そこに加熱ホルダーというのを入れたんですね.それを使うと,真空中で1,300度ぐらいまで上げられる.ただ私,透過電子顕微鏡は全くの素人です.それでも購入して頂いてやったんですけれども,結局分からず.というのは,温度を上げるスピードが非常に早いのと,当時は像を撮るのに結構時間がかかったので,1枚撮るのに数秒かかったんですよね.それだともうすぐに結晶化してしまって,その途中の過程の像は撮れないんですよ.だから論文も書くことができず,非常に高い装置を買わせてもらったのに,論文を全然書けなかったという失敗が一つあります.今でこそ言いますけれども.

 もう一つは,窒化ガリウム系の材料って太陽電池としても使えるんじゃないかという話があって,そのためにはインジウムをたくさん結晶の中に入れないといけないんですけれども,それもできるに違いないと思ってやったんです.ところが,インジウムを入れて温度を上げるとすぐ抜けちゃうので,圧力を高くして結晶成長すればいいかと思ったんですけれども,それもうまくいかず,結局それも大失敗に終わっちゃいまして,非常に高い研究費を使いながら,論文を書かずに終わってしまったということです.その二つの経験から,やっぱりやるときには論理的にきちんと組み立てて,しっかり準備をしてから研究・実験を始めないといけない,ということを強く感じました.

[植松]二つともお金に結びついており,痛い経験だったというのはよく分かります.

【第4部:若手へのアドバイス】

[植松]若手へのアドバイスということで幾つか先生からお伺いしたいと思います.先生は20代に行った研究業績によってノーベル賞を受賞されておられます.若い研究者に向けても,是非ともアドバイスをお願いしたいと思います.優れた研究者になるためには,若いうちに心がけておくべきことは何だと思われますか.

[天野]私の経験って決して褒められたもんでもないし,人に言えるもんでもないので,ただ単に運が良かっただけなので,アドバイスできる立場じゃないんですけれども,先ほども言いましたとおり,学生の頃夢中になってやっていたことが,四半世紀過ぎて世の中に認めて頂いたということです.世の中に認められるかどうかっていうのは,ほとんど運じゃないかなと思うので,自分がやりたくて夢中になれることを一生懸命やる,ということが一番大切なことかなと思います.

[植松]「夢中になれることを一生懸命やれ」というのはすばらしいメッセージだと思います.その次に,国際的に研究し活躍しようと思ったら,語学力や人的ネットワークといった実務面に加えて,どのような姿勢や準備が必要だと思いますか.

[天野]ありがたいことに,JSTのASPIREというので,いろいろな国の方々と一緒に共同研究をやらせてもらえるようになりましたし,その前にも青色LEDのときに,例えば韓国の方とか中国の方とか台湾の方と一緒にやらせてもらう機会を頂きました.そのときに感じたのは,やっぱり信頼関係ですね.信頼される行動を取ること,信頼される仕事をする,決して嘘をつかないとか,そういった当たり前のことが国際的な研究を続ける上ですごく大事だなと思っています.

[植松]そうすると,信頼関係を築くことができるか,そういう性格であるかっていうのは重要だということですね.

[天野]そうですね.

【第5部:研究人生を振り返って】

[植松]先生のこれまでの研究人生を一言で表すとしたらどのような言葉になりますか.

[天野]運が良かった,っていうことじゃないでしょうか.

[植松]それで済まされてしまうと真似しようがないので,もう一言何かありますか.

[天野]そうですね.赤﨑先生もそうですし,私もそうですけれども,一旦始めたことはもう最後まで諦めない.これは研究者として一番大事じゃないかなと思います.

[植松]始めた以上は,結果が出るまでやり続けるのが重要だということですか.

[天野]そうですね.ありきたりの言葉なんですけれども,赤﨑先生を考えてみても,すごく諦めが悪いというか,ずっと一つのことに執着されていましたし,私も考えてみると,ずっと同じ材料をこれまでやっていますからね.それは最後,例えば自分の目標で言うと,世の中の人に使って頂けるようになるまでやる,最後まで諦めないことじゃないでしょうか.

[植松]同じような言葉を甘利先生からもお聞きしたような気がします.先生にとって赤﨑先生はどのような指導者だったんでしょうか.

[天野]本当に前を明るくしてくれる,なんていうか灯りのような方でしたね.私にこの窒化ガリウムという,本当に人生をかけてずっと研究を続けられる材料をお示し頂いたという点では,本当に前を行く,すばらしい灯りのような,太陽のような存在でした.

[植松]赤﨑先生は先生に対してはどういう態度で接せられたんでしょうか.

[天野]研究のことは何も言わないんですよ.ただ「窒化ガリウムをやるぞ」という,それだけだったんですね.あとはもう普通の,私にとっては優しいおじいさんでした.

[植松]研究室の進捗状況の発表は,先生がデータを持って行って赤﨑先生に示してコメント頂くというやり方ですか.

[天野]研究室で集まってやるんですけれども,厳しいことは言われないんですよ.ただ,最初に言われたことは覚えていて,結晶をきれいにできないので,汚い結晶を赤﨑先生のところに持って行ったら,「君の作る結晶はいつもすりガラスみたいだね」って言われたのは今でも覚えています.その後,修士2年の最後に本当にきれいな結晶ができたときに,もう自分としては喜び勇んでいるわけですね.持って行ったときに,すごく冷静に「結晶というのはきれいになっただけではダメだから,ちゃんとX線回折で調べて本当に結晶が良いかどうか,大阪府大の伊藤先生のところで評価してもらいなさい」と言われたのも覚えていますね.

[植松]厳しいですね.大変すばらしい恩師だということはよく分かりました.

本日は,天野先生の御研究の歩み,そこに込められた思いや哲学を大変興味深く伺うことができました.最後に,これから研究を志す若い世代に向けて一言メッセージをお願いできますでしょうか.

[天野]先ほど「運」って言いましたけれども,運というのはただ待っているだけでは来ないんですね.必ずつかみ取るという努力が必要で,それをずっと続けていれば,いつか成熟することもある.是非,運は待つのではなくてつかみ取るように頑張って下さい,ということですね.

[植松]研究への情熱と創造性の大切さを改めて感じるお話でございました.本日は本当にありがとうございました.

[天野]本日はありがとうございました.どうも失礼します.



対談の様子は,電子情報通信学会ホームページ

https://www.ieice.org/jpn_r/president/2025/president_dialogue.html

または,学会YouTubeチャネル

https://www.youtube.com/@ieice6986

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