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abstract
計算機の処理性能の向上は人類に様々な恩恵をもたらしている.過去できなかったような規模や精度のシミュレーションは,デザインや環境調査,気候予測,回路設計など,身の回りの様々な場面で活用されている.一方,脳の構造や働きにヒントを得て考案されたニューラルネットワークは深層学習の登場で急速にパターン認識性能を向上させていることは周知の事実である.本稿では,計算機が今後一層性能を向上させると仮定し,それを用いたシミュレーションが我々にもたらす新しい可能性を,特に深層学習の延長線上にない場合について論じてみたい.
キーワード:計算機性能向上,脳・人間・生命エミュレーション,ミーム
計算機によるシミュレーションは古くは弾道の計算から始まり現実世界に起きている現象のメカニズムの解明,予測,再現において,ミクロ(素粒子・分子レベル)からマクロ(地球・天文レベル)まで広範に役立っている.より有用なシミュレーションをより短時間で行うためには,洗練されたアルゴリズムの開発に加え,情報処理性能の高い計算機の開発が必須であり,そのためにスーパコンピュータ(スパコン)の開発は国際的にますます競争が激化している.
世界で最も高速なスパコンを定期的にランク付けしているTOP500プロジェクトにおいて,2011年に首位となった日本製スパコンである京コンピュータの性能は10.5PFLOPSであり,2016年11月の首位は中国製スパコンの93PFLOPSである.
TOP500首位スパコンの性能は,それが発足された1993年以降現在に至るまで継続的にほぼ15年で1万倍のペースで成長している.また独自アーキテクチャのスパコンを開発するPEZY社は,2014年に178TFLOPS,2016年に1PFLOPSの性能を持つ計算機をリリースしており,今後は全く新しいアーキテクチャの開発も行いつつ,幾つかの段階を経て2028年には1ZFLOPSのスパコンを開発するとしている.つまり,過去のTOP500首位スパコンの性能の成長ペースより1.5倍速い,10年で1万倍ほどの性能成長を見込んでいる.
それぞれの性能向上の様子(見込み含む)とその直線近似による成長トレンドを図1に示す.横軸は西暦年,縦軸は演算性能(FLOPS,対数軸)である.今世紀末(2100年)において,TOP500首位のぺースがそれまで維持されるとすれば1039FLOPS,PEZYアーキテクチャのペースが維持されるとすれば1062FLOPS程度の性能を有する計算機が登場すると予想される.仮に控えめな予想の前者の場合(1039FLOPS)であっても,京コンピュータの1023(1,000垓)倍となる.これは京コンピュータを全地球表面(海も含む)に1mm2当り200台設置した場合の合計性能であり,正に途方もない値である.
更に,量子コンピュータのように上述のものと異なるアーキテクチャの計算機の登場も今後予想され,スパコン成長トレンドは上方修正される可能性もある.
したがって,長期スパンになるほど現在からは想像もつかないレベルのHigh Performance Computingが可能となるものと思われる.以後,計算機による模擬は物性・ハードウェアに近いものを想定するためシミュレーションの代わりにエミュレーションということにする.
現状の動向を踏まえ,段階を追って情報処理技術により実現されるであろう将来を予想・考察してみたい.
脳のニューロン及びシナプスの構造や働きからヒントを得て考案されたニューラルネットワークは,パターン認識などに応用されてきたが,特に近年の深層学習の登場で急激に性能が向上し,かつ応用範囲もレコメンドや機械翻訳,異常検知,各種予測や特定用途AIなどへ広がっていることは周知の事実である.
汎用AIの実現を目指し,脳機能の再現に挑んでいるプロジェクトは様々あるが,脳神経系のネットワーク構造を丸ごと再現する「全脳エミュレーション」,そして脳の部位ごとの機能をプログラムモジュールで再現・統合する「全脳アーキテクチャ」の2種類に大別される(1).いずれのアプローチであれ,やがて入出力系としての脳の機能の再現が可能となることが期待されている.ここで
入力=光や音,匂いなどの五感情報
出力=発声・感情反応
である.
一旦こうした掌握がなされれば,OSごと環境を転送・複製できる仮想マシンやDockerのように,「人物Xの電子データ」を計算機上でいかようにもエミュレートできるようになるであろう.
非可逆圧縮画像の品質は,復号画と原画との間の客観的な差異であるPSNRにより評価することが通常行われている.より正確な評価が必要な場合は人間が実際に画像を見て品質を評価する「主観評価」が行われる.ただしこれはコストが高いため気軽な実施は難しく,かつ計算機による最適化ループへの組込みは不可能であった.脳エミュレーションが可能となれば主観画質評価が限りなく低コストとなり,かつ計算機の符号量・画質バランスの最適化ループへの組込みも可能となる.
更に応用を発展させれば,「ドライブをすると楽しい」,「ゲームをすると楽しい」,「酒を飲むと楽しい」,「物を失うと悲しい」など,入力を様々に変化させた際の人間の情動を繰り返し評価し,情動を任意の方向に活性化または沈静化する入力を探索することが可能となる.
全く新しいエンターテインメントや受けるジョーク,深い感動を生む絵画や音楽,最高に泣ける文学作品,この上なく心が落ち着くBGMなどが生成できよう.
究極的には,脳に加え,全身の骨格・筋肉・内臓・神経系・リンパ系・皮膚・体毛その他人体の一切の要素の物理エミュレーションによる,人間(または生物一般)の計算機上での完全エミュレートが可能となるものと思われる.脳のみの再現では不可能であった運動感覚などの「身体知」までもが再現でき,機械と人間が共有できる「感覚の通有性」が五感全てにわたるため,この技術の活用可能範囲は大きく広がる.
例えば実在の人物が病気にかかったとき,どのような投薬をするとどう反応するか,どのような治療をするとどのような予後になるか,が繰り返し試行でき,医療の大きな助けとなる.
また計算機が人間の未発見の「つぼ」を見つけたり,ヨガやスポーツの指導を行ったりといったことが可能となろう.
また与えられた物質に対する味覚や食感も当然エミュレートできることから,(人間以外のものの物理エミュレーションも必要になるが)例えばオムレツが最高においしく感じるような調味料の配合や加熱時間を最適化探索する,ということも,全て計算機の中で済ませることができる.更に言えば,材料・調理法の組合せを自由に選択できるようにすれば,今までになかったがおいしく感じる全く新しい料理が,食材を全く無駄にすることなく開発できよう.
ニューラルネットワークも代表的な例であるが,既存の生命から様々な有用機能を学び取る試みは「バイオエンジニアリング」と呼ばれている.成功事例は数多く,例えば
・ フクロウの無音飛しょうを参考とした静音パンタグラフ,
・ ハスの葉の構造を参考とした撥水加工,
・ カイコ蛾の触覚を用いたバイオセンサ,
・ 放線菌が産生する物質を用いた駆虫薬
など,実に様々な分野で役立っている.
しかしながら,現在のニューラルネットワーク(深層学習)や脳再現プロジェクトは,究極的には人間がしていることは上手にできるようになるのが当然であるが,人間にできないことをもできるようにするのはそもそも難しい.同様に,バイオエンジニアリングで参考とした生物を超えるほど有用な機能を期待することは難しい.
超生命エミュレーションにおいては,最大化すべき目的関数を例えば光エネルギー変換効率とし,DNAの設定から発生エミュレーション,成長エミュレーション,目的関数評価の試行錯誤を繰り返し,最適なDNAを探索する.こうして植物の光合成とは異なる原理に基づく超高効率人工光合成生物を創造できる可能性がある.光合成のように実物が必要な場合は,計算機で創造された超生物を具現化する技術も必要となるが,バイオエンジニアリングのもう一つの研究領域である遺伝子操作やナノボット,ナノ3Dプリンタ技術等の更なる進化を待つ必要がある.
進化計算・最適化は余りに膨大な空間を探索するため,初期条件によっても,確率過程の乱数によっても結果は大きく変わる.これは我々地球上の生物についても当てはまる.もう一つ別の地球があったら我々とは異なる生物が存在している可能性がむしろ高い.
計算論的神経科学研究者の甘利俊一氏も,我々の脳は現在最高度に進化したものではなく,過去のある段階からその場しのぎで変化してきたものであるかもしれないと述べている(2).
超生命エミュレーションにおいては,自然の進化過程では起き得ないような,一度絶滅した種からの再進化や,逆に既に存在した種はしばらく探索から外す方法(タブー探索と呼ばれる)なども,エミュレート可能である.したがって,宇宙のどこにも存在せず有用性が著しく高い生物を計算機内で生成し得るであろうし,また個体サイズを有限(例えば人間のように細胞が60兆個あるいはそれと同等の元素数まで)と設定した中で,知性が最高となるような生物の厳密解を求めることも,微生物など小規模なものから順に,いずれ可能になると思われる.
当然ながら,脳の構造や機能を調査・再現する方法論の限界を超え,人の知性をはるかに超える人工知能が超生命エミュレーションにより得られる可能性がある.
一つの生命のエミュレーションの規模を敷衍すれば,例えば38億年の生命の進化を計算機内の地球(実際の地球と同じ規模は無理と思われるため,サイズを限定したミニ地球となろう)環境にて繰り返し高速に行うことが考えられる.前述の超生命エミュレーションでは現在地球上に存在するDNA複製に基づく生命を進化させたが,この生命系エミュレーションにおいては,例えば2010年にNASAが発見したと「報告」した,ひ素を遺伝情報に用いる生物のような,地球上の生命と別メカニズムに基づく生命も得られる可能性は十分高いと思われる.
有史以来,人間は記録や知識を文書に残す,絵に残す,写真に残す,音やビデオ,ライフログに残す,という歩みを経てきた.これは脳により受け継がれる文化の単位要素(ミーム,meme)をメディアへとダウンロードし,共有・継承するための営みであった.
記憶の物理化学的メカニズムが解明された後にはいずれ,脳内のmemeの抽出(ダウンロード)・修正(アップロード)を非破壊で行う手段が開発されると予想されている(ミイラからDNA情報を取り出すように,保存されているアインシュタインの脳からmemeをダウンロードするようなことまでは難しいかもしれないが).例えば米国の発明家レイ・カーツワイル氏は,精神転送(マインドアップローディング)は遅くとも2030年代に可能となると予想している(3).恐らくその時点では初歩的な段階での成功になるのではないかと思うが,より先には完全なアップロードも可能となると思われる.
また先人のmemeをアップロードすることで,先人が長時間掛けて学んだ事柄を短時間で身に付けられる.これにより,等価的に個々人の寿命は延びたことになる.更に,これまで一代限りで消え去ることが繰り返されてきた様々な知識・智恵・経験も好きなときに引き継ぐことが可能になるため文明の発展にも大きく貢献することになる.
教育は,現在叫ばれているような,AI自動翻訳で外国語教師が職を失うという程度を超えて,大きく変化すると思われる.「答えが分かっていることを教える」ことがmemeアップロードにより不要となるのみならず,「答えが分かっていないことを考える力を鍛える」ことすらエミュレーション教師で代替されるであろう.他者との交流を通して友人を作る場としての学校の役割は残ると思われるが,「社会性の育成」や「様々な体験」など,従来の学校の重要な機能はmemeのアップロードで代替するという選択肢も取り得るようになり,これまで根絶が難しかった「いじめ」は,少なくとも従来の形態のものについてはなくすことができると思われる.
既存の人物のmemeを,前述の脳エミュレーションまたは人間エミュレーションで読み込めば,いわゆる「イタコの口寄せ」のような故人との対話も当然可能となるし,動物との対話もできる可能性はあるであろう.他人同士が融合した新しいmemeを持つ人格も考えられる.
他の応用事例としては言語の保存がある.世界の言語の90%は次の100年で消滅すると言われているが,これは言語が生身の人間に付随していた場合の話であり,ネイティブ話者のmemeを保存することで,その言語があたかも計算機言語のように永久保存できるようになる.
こうして人間が次代へ新たなmemeの情報を残すことがより容易になり,かつそれが人間の存在理由の一つともなると考えられる.
本稿では,あえて法的・倫理的・哲学的な議論やAI・シンギュラリティへの言及から距離を置き,純粋に技術的な視点から,著しいHigh Performance Computingが可能となった場合にその帰結としてどのような応用が考えられるのか,特に深層学習の延長線の外にあるような可能性について考察した.
過去の歴史を見ても未来の予測がいかに無理なことであるかは明白ではあるが,少なくとも計算機の処理能力が今後も過去の延長線以上に成長していくことを強く祈りたい.
(1) 井上智洋,人工知能と経済の未来,文芸春秋,東京,2016.
(2) 飯野 希,数理脳科学の世界的権威 甘利俊一に聞いた第三次AIブームに「足りていないモノ」,April 2017.
https://bita.jp/dml/amari
(3) レイ・カーツワイル,加速するテクノロジー,NHK出版,東京,2007.
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