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大学教養課程の数学で解析学と線形代数を学ぶ.解析学は微分積分なのでどんなことに使うのかおおよそ想像がつく.でも線形代数に出てくるベクトルや行列って一体何の役に立つのだろう.実は線形代数は応用できる技術分野が極めて広い.特に,対象とする系において複数の物理量が相互作用するような場合,それらの振舞いを一括で定量的に記述するのが行列である.
電子情報通信分野で分かりやすい例は線形回路網である.複数のポートを介して電圧電流をやりとりするシーンで,
,
などのパラメータ行列が絶大な威力を発揮する(1).更に線形システムのみならずインバータや整流といった非線形デバイスを含むパワーエレクトロニクスにおいても行列の技法を使って電圧電流の振舞いを系統的に解明する理論が新たに浮上してきた(2),(3).本稿では電子情報通信工学の超基本である正弦波交流を題材として行列演算の美しくも巧みな技を習得する.
交流とは電圧が時刻とともに周期的に変化する電気的現象である.その中でも電圧が三角関数
(1)
で表される交流を正弦波と呼ぶ.これを横軸のグラフで描くと図1に示す波形になる.正弦波は交流の中で最も美しい波形(単一周波・無ひずみ)であり調和振動とも呼ばれる.上式右辺に登場する
:電圧振幅
:角周波数(用語)
:位相
はいずれも時間的に変化しない定数である.これら3定数を指定することで正弦波が一意に定まる.
それにしても定数が三つもあると話が煩雑になる.そこで本稿では簡単のためは既に与えられている前提とする.そして残り二つの定数
と
を独立に設定あるいは調整可能なパラメータであると考える.これら2パラメータは平面上のベクトルに対応させることができる.それを図2に示す.
はベクトルの長さ,
は0°から360°まで振れる偏角である.原点Oからの距離と方位でベクトルの終点の位置を指定することを一般に極座標表示と呼ぶ.このベクトルで平面上の全ての点を網羅できる.式(1)で与えられる任意の正弦波はこの平面上の点に写像される.すなわち,正弦波と点の位置は一対一に対応する.
平面上の点の位置で正弦波を指定できる.このことは正弦波の理解を格段に促進する.つまり,ある正弦波を指定するために労して図1のような時間波形を描くことなく,図2のベクトルで示すだけでよい.逆にベクトルを見ることでそれがどのような正弦波なのかを特定できるのだ.このように正弦波の振幅と位相に対応させたベクトルはフェーザとも呼ばれる.
式(1)は図1の時間波形に直接対応しているのでパラメータの物理的意味がつかみやすい.それゆえ多くの教科書が式(1)を採用している.ところが考えてみると,式(1)は使いにくい点がある.パラメータが三角関数の中に入っているので,これをそのまま回路方程式に代入すると数式が
に関して非線形な方程式となってしまうのだ.この非線形性が理解への障壁をもたらす.何とかして線形系でエレガントに理論構築する方法はないだろうか.
そこで次にマウンドに登板するのが二つの三角関数を結合した表現
(2)
である.式(1)と式(2)を同値にするには上記係数を,
と定義すればよい.その理由はsinの加法定理(用語)を思い出せばぴんと来るはずだ.この係数関係は図2でも確認できる.式(2)を正弦波の直角座標表示と呼ぶ.
直角座標表示では二つの独立パラメータがどちらも三角関数の外側に係数として出ている.そこが式(1)と決定的に異なる.おかげで線形代数が使える.
…と言っても,式(2)そのままではベクトルも行列も姿が見えない.では一体どうすれば線形代数の世界へ持っていけるのか.その期待に応えるのが
(3)
である.これを正弦波のベクトル内積(用語)形式と呼ぶ.式(2)と式(3)が同値であることは内積の定義から自明だ.ここでは,を回転ベクトルと呼ぶことにしよう.
あらゆる電気システムにおいて電圧のパートナ役を演じるのが電流である.そこで,電流波形についても上記と同様にベクトル内積形式
(4)
で表す.通常は電圧と電流が同じ角周波数を共有することが多い.つまり,式(3)と式(4)は回転ベクトルが共通である.したがって,同ベクトルで括った2階建の形式
(5)
に合体できる.この合体結果を見て新鮮な戸惑いがあるかもしれない.その場合は右辺を行列ベクトルの乗算ルールどおりに展開してみること.それで合点がいく.式(5)に至って行列の姿が見えてきた.線形代数の出発点である.
直流抵抗を交流の世界へ拡張する物理量をインピーダンスと呼び,複素数
(6)
で表す.ここでは虚数単位,実部
は抵抗,虚部
はリアクタンスと呼ばれる.一方,直角座標の世界ではインピーダンスを電圧対電流の比,すなわち
(7)
で定義する.この定義は直感的に納得できる.きちんと証明が必要なら文献(4)を参照.式(6)と式(7)はを介して
(直角座標表現)と
(複素数表現)を結び付ける.ちなみに,これらの式を見て,そもそも負数の平方根などという奇妙な数学的存在にどうしても物理的意義を見いだせない,と思い悩む学生君もいる.安心してほしい.虚数
はこの後間もなく消え去り,今後再び現れることはない.
上記で
座標の電圧電流がどう表されるのか調べてみよう.式(6)と式(7)を等置することで
を消去する.それで得られた複素方程式の分母を払って実部と虚部をそれぞれ整理すると
,
となる.これらをまとめて2階建で表示すると
(8)
となる.この時点でが消えている.洞察力高い学生君なら上式が直流でのオームの法則
(9)
の二次元拡張になっていることに気付くだろう.そのとおり見た目の形としては式(9)をベクトルと行列で機械的に置き換えるのだと覚えてよい.ただし,行列は右上の要素にマイナス記号が付くことに配意しよう.
逆に,座標から
を求めるにはどうすればいいだろうか.改めて式(8)に着目しよう.左辺は電圧ベクトルである.右辺は乗算の順序を巧妙に工夫することで
(10)
と書き換えられる.この両辺に電流行列の逆行列を左からかけて
(11)
を得る.これでインピーダンスの行列公式が導出できた.よく知られた直流抵抗の計算式の二次元拡張バージョンである.式(8)は
領域から
領域へ橋渡し,式(11)はその逆変換の手段として汎用的に使える.
小学校の理科で学ぶ電圧電流
電力という式は,直流ではもちろんのこと,時間とともに刻々変化する電圧電流に対してもそのまま使える.時刻
における電圧と電流をそれぞれ
と書くと,その積
(12)
がその瞬間の電力である.と
が正弦波の場合は上式右辺に内積形式(3)と式(4)を代入して
(13)
と書ける.ただし後半は電流ベクトルと回転ベクトルを転置(用語)した.
続いて,行列演算における結合則(用語),ベクトルの直積(用語),そして,三角関数の倍角公式(用語)を用いると
(14)
となる.これを電圧電流によるサンドイッチ形式と命名する.
更に続いて,行列の分配則(用語)を適用すると
(15)
となる.これにてがきれいに分離できた.前半が定数項,後半が振動項である.
式(13)から式(15)までの行列操作はちょっと見た目で大変だなと感じるかもしれない.でもそれだからこそ紙と鉛筆でチャレンジされたい.用語解説欄にヒントがある.正解できれば高い達成感を味わえること請け合い,友達や後輩にも自慢できる.
式(15)前半の定数項をと書くこととする.
の中ほどにある単位行列は掛けても変わらないので
(16)
(17)
となる.ゆえにはsin電力とcos電力の和であることが分かった.これは直感による予想に一致するだろう.
を正弦波の実効電力と呼ぶ.ここで注目すべきことは,単に電力
電圧
電流ではなく,そこに係数として1/2が掛かるという結果である.この1/2が現れるのが正弦波ならではの特徴である.
この係数1/2を陽に表示したくない場合がある.そのときは元々の電圧電流の振幅を正弦波ピーク値の代わりにそので定義しておくという方法がある.これを実効値:英語ではRoot Mean Square(RMS)と呼ぶ.例えば一般家庭用コンセントの交流100Vという表示は実効電圧である.ピーク値はその
倍すなわち140Vを超える.
実効電力を一対の電流ベクトルによるサンドイッチ形式で表すこともできる.式(8)を転置して式(16)に代入すると
(18)
を得る.行列の乗算を実行すると
(19)
となる.これは直流回路における電力の公式に相当する.パラメータ
が消えた.これは電流が一定という条件下でリアクタンスが実効電力に寄与しないことを意味する.
一方,式(15)の後半は直流の世界で全く見かけない項である.しかもよく見ると回転ベクトルの引数がである.これは電圧電流の2倍の周波数(用語)で振動する成分が瞬時電力
に含まれているということを意味する.先ほど挙げた家庭用コンセントの例では周波数50/60Hzに対して瞬時電力の周波数は100/120Hzということになる.実際問題どう考えればよいのだろうか.さほど心配しなくてよい.sinとcosはどちらも平均値ゼロを中心として上下対称に正負を繰り返す周期関数である.それゆえ結果的に実効電力に寄与しない.したがって,この振動項が交流システム設計の表舞台に現れることは少ない.
実効電力を数式ではなく幾何学的に目に見える形で表現する方法はあるだろうか.その答えを図3に示す.平面上に電圧ベクトルと電流ベクトル
をプロットする.ベクトル
を左へ90°回転して新しいベクトル
を作る.
と
で張られる三角形
の面積が実効電力である(注1).
なぜそうなるのか.証明:ベクトルを90°回転した
の座標は図から分かるとおり
である.ベクトル
と
を二辺とする平行四辺形を思い描く.その面積は付録に記載した方法によって
と求まる.この平行四辺形を2等分したものが三角形
である.よって,その面積は
すなわち式(17)に等しい:証明完了.
なお,この三角形の面積は
(20)
と書くこともできる.縦棒2本セットは四つの行列要素のうち対角要素の積から非対角要素の積を差し引く演算を意味し,これを行列式と呼ぶ.行列と行列式は似て非なるものなので注意.この行列式はベクトルと
の外積(用語)とも呼ばれる.一般に外積の絶対値は二つのベクトルで張られる平行四辺形の面積に等しい.
話を少し戻して,直角回転する前のベクトルと
に着目しよう.これらを二辺とする三角形
は何を意味するのだろうか.その面積は行列式を用いて
(21)
と表される.これを正弦波交流の無効電力と呼ぶ(5).
式(20)と式(21)はどちらも2×2行列式だが中身が微妙に異なっている.この微妙な違いを見やすくするために,上式を電圧電流サンドイッチ形式で
(22)
と書き直してみる.これを式(15)の前半と比べて見ると違いが浮き彫りである.この違いをベクトル的に表現すると
◎電圧と電流の内積÷2=実効電力
◎電圧と電流の外積÷2=無効電力
となる.
理解度チェック:試しに図3の平面上に自在にと
を描いてみて,三角形の面積がどうなるか目で追ってみよう.
と
の方向が互いに近い方が無効電力が小さくなり,伴って,実効電力が相対的に大きくなる.それを視覚で感じ取れれば正解である.
交流理論において従来から用いられている振幅位相から少し視点を変え,直角座標を基軸とする理論を組み立てた.得られた公式集を表1にまとめる.理論式の美しさとはシンプルで覚えやすいこと,更に,ベースとなる直流理論からストレートに類推できる形となっていることである.本稿で展開した線形代数をフォローすることで正弦波に対する理解を深めると同時にベクトル行列演算の巧みな技を身につけて頂けたなら目的達成である.これらの技が皆さんが今後遭遇するであろう様々な技術課題にアタックするための心強い味方となることを願って筆を置く.
謝辞 楽しいイラスト画を提供して頂いた鶴岡高専白砂みより助教に謝意を表す.
(1) 大平 孝,“行列ができる回路演習:アナログ回路を紙と鉛筆で考えよう[Ⅱ]――スカラから行列へ次元拡張――,”信学誌,vol.93, no.2, pp.152-156, Feb. 2010.
(2) T. Ohira, “Linear algebra elucidates class-E power amplifiers,” IEEE Microw. Mag., vol.23, no.1, pp.83-105, Jan. 2022.
(3) T. Ohira, “Duality theorem juxtaposes class-E and inverse-class-E diode rectifiers,” IEEE Microw. Mag., vol.25, no.1, pp.90-94, Jan. 2024.
(4) T. Ohira, “Bridge between R-X and P-Q domains,” IEEE Microw. Mag., vol.24, no.11, p.98, Nov. 2023.
(5) T. Ohira, “Plane geometry inspires wave engineering starters,” IEEE Microw. Mag., vol.24, no.3, pp.93-98, March 2023.
(2024年10月3日受付 2024年10月16日最終受付)
<コラム>
付録:平行四辺形の面積
二つのベクトル,
を二辺とする平行四辺形を図4に白抜きで示す.その面積
はこれを囲む長方形全体の面積から着色部分の面積を差し引く方法で
と求められる.この結果を行列式で書くと
となる.
(注1) 実効電力はと
が同じ向きのとき,すなわち,
と
が直角を成すとき最大となる.
■ 用 語 解 説
を周波数,そして
を角周波数と呼ぶ.
である.ここでと置くと倍角公式
が得られる.
というスカラ量になる.これを内積(ドット積)と呼ぶ.そして,同じ乗算でも縦横の順序を逆にすると
という行列になる.これを直積(デカルト積)と呼ぶ.更に,行列式
を外積(クロス積)と呼ぶ.本来外積は紙面に垂直な方向を有するベクトル量であるが本稿ではその大きさだけ用いる.
である.行列の積を転置すると
のごとく乗算順序が逆になる.
結合則:
結合則:
が成り立つ.なお,
交換則:
は必ずしも成り立つとは限らない.
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